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2014.02.28 Friday

19世紀末のカーペットブームは何をもたらしたか 6.労働のありかた

Donald Quataert 著 "Ottoman manufacturing in the age of the Industrial Revolution"からの内容を中心にした
「19世紀末のカーペットブームは何をもたらしたか」は今回が最終回。

正直言って、カータルトの本に書かれているのは
このブログのテーマの "my favorite rugs" とは正反対の方向へ向かう絨毯の話だ。
手織り絨毯が感じさせる温かみや安らぎを知る読者のかたにとっても、あまり読みたくない記事だと思う。
それでもあえてマスプロダクトに向かう絨毯産業の話を書くのは、
マスプロダクトではない絨毯がどれほど価値のあるものなのかを、翻って教えてくれると思うからだ。

今回は絨毯製作における「労働のあり方」がどう変化したのかについて。

* * *

カータルトは、古くからの商業用絨毯産地ウシャックと後発の絨毯産地を比較して論を進めている。
まずウシャックがどのような状況であったかを見てみよう。

坂本勉著『ペルシャ絨毯の道』によると、ウシャックは
「地味がやせていて小麦すら栽培ができないところであった」が「周囲には遊牧に適した山があり、水も豊富であった」ため、
「遊牧民から羊毛を買い、付近を流れる小さな川の水を利用してそれを洗い、糸にし染色したあと絨毯を織ってきた」。
「住民構成は85%がトルコ系のムスリム、残りはギリシア系、アルメニア系などの東方キリスト教徒」で、
「絨毯を織る仕事は、主としてトルコ系ムスリムがおこなっていた」が、絨毯需要が増すなかで
「男は羊毛の洗浄、染色をおこない、女がそれを織る分業体制を早くからしいていた」。

つまりウシャックはトルコにおける商業用絨毯のパイオニアとして、
それなりに合理的な生産体制を構築してきたということだろう。

カータルトによると、男が「糸紡ぎ」の工程をうけもった時期もあったという。
ウシャックはこのような効率的な絨毯製作によって、
1870年代にはアナトリア全体の四分の三の絨毯を生産していた。

この時代、織り作業の場所はほぼ例外なく家庭であった。
家に数人の織り手を雇って絨毯を織らせる女性もかなりいたらしい。
古いウシャック絨毯のなかには比較的大型の絨毯があるが、
それに見合う大型の織り機が個人宅の中庭や部屋の中に設置され、
数人がかりで織られていたようである。
このような「織り機を所有する女性」は、いわば個人経営者として絨毯商人や仲買人との関係を築いていた。
・商人や仲買人から前渡し金を受けとり、絨毯を織る契約をするケース
・彼らが扱う染料を使うことを前提に、絨毯を織る契約をするケース
・彼らから既成の色糸を受け取り、その糸で絨毯を織る契約をするケース
などいくつかの形態があった。
どうやら「織り機を所有する女性」はある程度の独立性と力を持っていたようだ。

染色分野においても、絨毯商人が雇用する職人のほかに独立自営の職人もかなり存在していた。
1850年代ごろのウシャックの染色技術は高く、天然染料によって様々な色を出すことができたという。

(ちなみにウシャックがプロ中心だったのに対し、クラでは家庭の女性が天然染料による染めの伝統を守っていた。
1880年代ごろまで、クラでは各家庭の戸口には自家製の染料の壺が置かれていたというが、
インディゴだけは専門の染め職人に頼んでいた。やはり
インディゴ染色は最も難しいようだ)

2012_0202_140418-CIMG7812.JPG
文章ばかりだとつまらないのでクラ絨毯の写真。
あまり見かけない色が多いが天然染料のように思える。ただしインディゴは使われていない。

* * *

1830年代から1880年代までは絨毯の価格が上がるにつれて工賃も上がっていた。
ところが1890年代になると、絨毯価格の上昇に対し織り手の賃金が上がらなくなる。

1896年以降はインフレが進んだにもかかわらず絨毯の価格は上がらず、絨毯商人は苦境に立たされた。
そこで絨毯商人が考えたのは、工賃を下げることだった。

また織り作業の場所を家庭から工房に移すことで効率を上げようとした。
家庭での作業は家事や育児でしばしば絨毯織りが中断されるし、
個人によっては自己流で織るために、歪んだり打ち込みが甘かったりする。
監督官が目を光らせる工房ならば、集中力も上がるし、技術面での問題を指導することができるからだ。

ところがウシャックは商業用絨毯製作の歴史が長かったため、先述したように
織り機を所有する女性や、独立自営の染色職人が一定の力を持っていた。
ウシャックの織り手は、工賃切り下げや場所を工房に移す提案をなかなか受け入れなかったのである。
ウシャックだけでなくクラやギョルデスなど、トルコムスリムの力が強いところでは
同様に合理化への抵抗が強かったという。

そこで一部の商人はウシャックに見切りをつけ、シバスやウスパルタに目を向けた。
新興産地なら既成勢力の抵抗もなく、工房での効率的な作業や、より低い賃金が可能になるからだ。

カータルトはいくつかの資料を挙げているが、いちばん工賃差があるのは、
1910年にシバスの絨毯工場の賃金がウシャックの八分の一だったとのデータ。
その後、工賃差はある程度縮小したようだが
1914年のOCMウスパルタ工場の賃金は8年前のウシャックでの工賃の半分以下であったという。

OCMを中心とする絨毯商人が新興産地に重点を移したこともあって
トルコ国内におけるウシャック絨毯のシェアは、1910年には四分の一に減少した。

2012_0202_140319-CIMG7808.JPG

1908年の設立時には、すでにトルコ商業用絨毯をほぼ牛耳っていたOCMは、
自社所有のパンデルマ紡績工場で糸を紡ぎ、イズミルの染色工場で染め、
トルコ西部〜中部に建てた17の工房に付近の女性たちを集め、女性監督官のもと絨毯を織らせた。

低賃金やきびしい労働管理は、労働者の不満を増大させた。
OCMのイズミル工房では、1908年8月に染色職人と織り手が賃金アップを要求して1週間のストライキを行い、死者まで出る騒ぎとなったという。

* * *

OCMがはじめたわけではないが、絨毯産業における児童労働について述べておこう。
イランのタブリーズの絨毯工房では孤児(男児)を積極的に採用していたことを書いたが、
第一次カーペットブーム期のトルコでも、児童労働は珍しいことではなかった。

児童労働は、ミッション系を含めた欧米の慈善団体によっても行なわれた。
アルメニア人が介在しているケースが多いようだが
ウルファ・ハープット・アレッポでは孤児院あるいは工房に孤児を集めて絨毯を織らせ、
欧米市場に輸出していた。

また、OCMのシバス工場では数千人のアルメニア少女を集めて絨毯を織らせていたという。

いまの価値観からすると非難されることだが、当時の絨毯産業において児童は重要な労働力だった。

トルコの家庭では女の子が6歳ごろになると母親が家で手ほどきをして絨毯織りを教えはじめる。
基本モチーフを覚え、一定のスピードで均一に織ることができるようになるのに約二年かかるというから
女の子は8才くらいから「織り子」として働けるようになる。

ここで考えたいのは、先祖代々絨毯織りの技術が母から娘へ伝えられ、
やがて娘が絨毯織りをマスターして自分たちのために絨毯を織っていく行為と、
あらかじめ染められた機械紡績糸で、与えられた方眼紙どおりに織って
出来高賃金を受けとる行為との違いについてである。

2012_0202_140241-CIMG7806.JPG

* * *

19世紀末のカーペットブームによって
それまでは手にすることのできなかったオリエントの絨毯を、
より多くの人が手に入れることができるようになった。
手に入れた人は、より温かみのある上質な暮らしができるようになっただろう。

トルコやイランなどの産地からいえば、
民族の伝統技術である絨毯を「産業」に育て、自国の経済発展に役立てることができたし、
トルコの女性の立場からいえば、
家に縛りつけられていた女性が近所の絨毯工房に働きに出たことは、一種の解放だったかもしれない。

カータルトは絨毯製作の項を、以下のように締めくくっている。

「労働環境が変化して、絨毯製作は根本的に単純作業になった。
工場で紡績され染められた糸が織り手に与えられ、
織り手は幾何学模様が 描かれた下絵の前に坐って、
なんの決定もできなければいささかの調整も許されず、
逸脱なく下絵どおりに織ることを求められた。
多くの場合、絨毯製作の技術は、
一部の機能を受けもつ個人による、自動的な作業の連続になった。
どのような絨毯を織ろうかと考えることから始めて、実際に絨毯が完成するまで、
全体を把握することもなければ、想像性を発揮するわずかな余地もなくなったのである」

* * *

このシリーズは以上で終わりです。
次回から、また心機一転したいと思います。
良い週末を!

2014.02.19 Wednesday

19世紀末のカーペットブームは何をもたらしたか 5.デザイン

唐突な話題になるが、2013年6月18日に「開運なんでも鑑定団」でめずらしく絨毯が取りあげられた。
ネットで検索すれば絨毯の画像や鑑定結果が見られるので、興味のある方は調べてみてください。
鑑定依頼人は「イラクで織られた物」と主張するのに対し、
鑑定士は「羊の毛も織り方もペルシャ以外には考えられない、おそらくケルマンの物」と答えている。
面白いのが、絨毯上部に「バスラ刑務所で織られた」という文字が織りこまれていることで、
結論からいうと、その部分は「後から織りこまれた」ものらしい。
偶然にも番組収録直後に鑑定士の方とお会いする機会があったのだが、
革命騒ぎから難を逃れるために、"虐げられていた人が収監されていた"刑務所の名を織りこんだのかもしれない、という話も出た。

* * *

なぜこの話をするのかというと、以前から疑問に思っていた「あるタイプの絨毯デザイン」と関係があるからである。
鑑定に出された絨毯は、王室か貴族などいわゆる「名家の紋章」を思わせるデザインなのである。
またシャルキョイ・キリムとも呼ばれるバルカンで織られたキリムで、やはり「紋章」を織りこんだものを見かけた。
特定の時期に、富裕層が家の紋章を毛織物に織りこむことが流行っていたのだろうか?

"ORIENTAL CARPET DESIGN" by 
P.R.J.Ford という本に、上記鑑定の結果を裏づける資料がひとつ見つかった。
Scan10006.JPG
ちなみにこの絨毯の中央部分には「ライオンと太陽」のシンボルが織りこまれている。
ときどき見かけますね、このモチーフ。
Scan10006 - コピー.JPG
こちらはカシャーンの13世紀のタイルに描かれた「ライオンと太陽」。

* * *

ケルマンは「ピクトリアル・ラグ」と呼ばれる「絵画的デザインの絨毯」を得意としているが、
19世紀末のカーペットブームのとき、ヨーロッパからの様々な注文をこなしていた。
上のような「紋章絨毯」も「ピクトリアル・ラグ」の範疇に入るようだ。
Scan10009.JPG
"Oriental Carpet" by M.Eilandから  ケルマンのピクトリアル・ラグ(19世紀末)
Scan10008.JPG
前掲書より 具体的産地は記載されていないが「ペルシャ都市工房の19世紀末の絨毯」

見覚えのある名画がたくさん織りこまれた「名画コレクション絨毯」だが
これだけの緻密な絨毯を織るには、かなりのテクニックが求められたと思う。
デザインから考えて、ヨーロッパ向けのものではないだろうか。

* * *

上の3枚はいずれもペルシャ絨毯だが、トルコでも同じような現象が起きていたようだ。
ドナルド・カータルト著『産業革命時のオスマン帝国の製造業』には、「絨毯のデザインの変化」についても書かれている。

「オーダーメイド絨毯」と方眼紙

それによると、ウシャックをはじめトルコの複数の産地で、ヨーロッパからの注文を受け
世界に一枚だけ、あるいは一族の数人だけが所有するための「オーダーメイド絨毯」が織られていたという。

「スミルナ(現イズミル)の紳士のための、中央にイタリア王室の紋章が織りこまれた」絨毯が
1860年代末にウシャックで織られていたという記録があり、
また、20世紀初めに出版された絨毯の本に、
エッフェル塔やセーヌ川を織りこんだ「パリ市街の鳥瞰図」デザインのカイセリ産シルク絨毯が載っているという。
ヨーロッパの油絵を絨毯に織りこむことは珍しくなく、
なかでもルイ14世期のモチーフやヴァトー(ロココ時代の画家)の絵を織りこむのが人気だったようである。

20世紀初めのウシャックでは、次のような受注体制があった。
ヨーロッパの代理店が、イズミルの代理店に「デザイン画」か「写真」を送ると、
イズミルの代理店は、それを自社の「アーティスト」かウシャックの絨毯商人に渡して「下絵」を書かせ、
その下絵どおりに織り手が織る、というものである。
(ここで出てくる「アーティスト」が具体的にどんな仕事をしているのか疑問だったが、
最近すこし解りはじめてきた。それについては後日あらためて書きたいと思う)

絨毯のデザインは本来、その地方特有のものや、母から娘に伝えられてきたものである。
パターンもそれほど複雑ではなく、ある程度訓練を積んだ織り手は記憶したモチーフを応用しながら絨毯を織ることができた。
ところがヨーロッパ需要により、まったく新しく複雑なデザインが求められるようになると、それではやっていけなくなったのだ。

トルコでも最初は「ベテランの織り手」がデザイン図を見て「お手本の絨毯」を織り、
「その他大勢の織り手」が「お手本絨毯」を見て、織り目を数えたりしながら、同じデザインの絨毯を織っていたのだが、
この方法だと、細かい部分にズレや歪みが生じることが多く、注文通りの絨毯ができないという問題が生じた。
そこで、the Oriental Carpet Manufactures は「方眼紙」を使うことによって織りの精度を上げ、
また、織り手の習熟度に合ったデザインの絨毯を織らせたのである。

このことは、織り技術の高い織り手だけでなく、技術の低い織り手も動員することを可能にし、
絨毯を大量に織らねばならなかったカーペット・ブーム期においては画期的なシステムだった。

新しいデザインVS.伝統的デザイン

化学染料の記事でも、オスマンのお役人が新しい染料の導入を勧めたという話を書いたが、
ウシャックの絨毯工場を視察したトルコの検査官も、トルコ絨毯業界に「新しいデザイン」を普及させることに熱心であったという。

だが一方で1863年のイスタンブルでの展覧会でアンティーク・デザインの方が人気があったことに注目する絨毯商人もおり、
絨毯商人の間では、新しいデザインと伝統的デザインのどちらを選ぶべきかで意見が分かれていた。
結果としては前者が優勢になり、使われる色もけばけばしい赤と青が中心になっていった。

「新しい」デザインというものの、その実態はペルシャ絨毯やヨーロッパの花柄模様の模倣が中心であったという。

また新しい絨毯産地の絨毯をネームバリューのある「ウシャック絨毯」として販売するなど、産地偽装も行なわれた。
1904年出版の絨毯の本には「ターキッシュ・ケルマン絨毯」や「ペルシャデザインのウシャック絨毯」が載っており、
それらの絨毯が織られはじめてすでに30年ほどの歴史があると書かれている。
つまりペルシャ絨毯デザインの模倣は1870年あたりから始まっているということになる。

* * *

本の内容はここまでであるが、第一次カーペットブーム期に織られたトルコ絨毯は、
宮廷工房時代のヘレケ絨毯を除けば、絨毯好きが読む絨毯の本にはほとんど載っていない。

先日、海外のサイトで「スパルタ絨毯」というルームサイズの絨毯を見つけたが、イスパルタ絨毯の別名らしい。
けっこうなお値段だったが、写真ではウールの質や染色がいまひとつ分からない。

一度実物に接してみたいと思うが、私はやはり、それより前のトルコ絨毯が好きである。
ぽっくりして艶があるウール、深い天然染料、心安らぐモチーフ。
良いものをつくろう、美しいものをつくろうと、思いながら織った絨毯は
効率を最優先にしてつくった絨毯とはやはり違うと思う。

* * *

わたしは若いときとても反抗的だった。
「伝統なんかくそくらえ!」(下品でスミマセン)
そう思っていたけれど、
古くからずっと伝わってきたもののなかに、とても大切な、宝物が含まれている。
新しいものと古いもの。
変えるべきものと変えてはいけないもの。
絨毯を手がかりに、さらに考えていきたいと思います。
(つづく)
 
2014.02.06 Thursday

19世紀末のカーペットブームは何をもたらしたか 4.化学染料

 

誤解のないように言っておくが、カータルト氏の本は主に「商業用絨毯」を論じたものなので、同時期のトルコにおいても、自ら育てた羊から毛を刈り取り、洗って梳いて紡いで染めて織る……という工程をすべて自分たちでおこなう方法も併存していた。

特にキリムは絨毯と違って、ごく最近まで「自家用」に織られることがほとんどだったし、絨毯でも今なおボザラン村のように天然染料を使ったり、カラジャヒサル村で手紡ぎ糸を使ったりするケースもある。

ただこの百年、市場に流通する量は商業用絨毯が圧倒的に多かったし、現在織られている絨毯やキリムのほとんどは商業用である。自家用の絨毯やキリムも、商業用絨毯と無縁な地域ではないのだから、糸や染料など、さまざまな影響を受けていることだけは確かである。

 
                            *   *   * 

オスマン時代の絨毯製作について、今回は「染料」について考えたい。

私の読解力がないせいも大きいと思うが、染料に対する記述については今ひとつスッキリしない部分も残った。
カータルト氏は膨大な資料を読みこんでこの本を書いており、資料のなかに多少の事実誤認が含まれるものがあってもおかしくはない。全体のごく一部だとは思うが、年代的に矛盾する箇所もあった。たとえば最初の化学染料が発明されたのは1856年だが、ある政府の検査官が1852年に化学染料の使用を勧めた、といった記述がある。

また「1840年代に茜のライバルとしてアナトリアに入ってきたコチニールは、紫がかった赤色がどぎつすぎるため、一部の絨毯商人を落胆させた」という記述があるが、この本を読んで、コチニールを使った絨毯を見たことのない人はたぶん「コチニールというのはどぎつい色なのか」と思ってしまうだろう。
もっとも、氏は絨毯研究者ではなく歴史家なので、特定の色を綺麗と感じるかどうかは論点ではない。けれどコチニールが絨毯やキリムの世界でいかに評価されているかを知っている者にとっては、「誤解しないで」と言いたくなるかもしれない。

ただいずれにせよ、一般の絨毯本では得られない絨毯産業の歴史資料を提示してくれた点で、これはじつに貴重な本だといえる。

 

前置きが長くなったが、化学染料がどのようにトルコに受容されていったかについて、カータルト氏の記述を読んだ後、自分なりに当時のイメージを描いてみた。


                              *   *   * 

きっかけ―材料不足など

ヨーロッパのカーペットブームにより、絨毯の需要が飛躍的に増大したため、染料の入手や染色の手間について、従来通りではやっていけなくなった。

たとえば赤の主要な染色材料である茜は、良い色をつくりだすのに一定の生育期間を必要とする。6年物の根なら上質の赤になるが、13年程度の若い茜の根では薄い赤しか出ないため、増大する絨毯製作量の染色に使われる量の茜の根が確保できなくなった。赤以外の染料にしても、材料となる草木の生育量やそれを集める手間が追いつかなかった。さらに染めの工程にも、かなりの手間と時間がかかった。

 

近代化の課題

当時はオスマントルコ総体が近代化の課題に直面しており、近代化をめざす官僚にとっては、絨毯の伝統的デザインや天然染料による色が「時代遅れ」だと見なされていた。化学染料は「モダンカラー」であり、多種多様な色がつくりだせ、価格が安く、染めの手間も簡単な「近代的染料」としてイメージされていたようである。主要な絨毯産地でも、いかに「欧米の顧客の好み」に合う絨毯がつくれるかは重大な関心事であり、「鮮やかでコントラストが強い深い色」を出せるのは化学染料だ、と考えられていた。

 

ドイツ・イギリス・フランスなどの染料会社の攻勢

初期の化学染料は、日光ですぐ色褪せ、水流れしやすいという欠点があり、ペルシャでは1903年に化学染料禁止の法律が施行された。(絨毯関係の本によって諸説あり、使用が発覚した場合、「工房は焼かれ、染め職人は右手を切り落とされる」といった内容もあれば、「過酷な税金を課した」というものもあり、真偽のほどは分らないが、化学染料を使いにくくさせる一定の効果はあったようだ。)

一方、トルコでもやはり化学染料の欠点が顕在化し、アイドゥン地方では1888年に知事がアニリン染料使用を禁止する布告を出した。ところがイズミルのイギリス商人が圧力をかけて、布告を無効にさせてしまったという。導入当初時における化学染料の売り込み攻勢も激しかったようだ。

 

安価な絨毯の需要増大

コンヤのある工房では1903年にいったんアニリン染料をやめて天然染料に切り替えたものの、4年後にはふたたび化学染料を使うようになったという。個別の理由は不明だが、当時は「より安価な絨毯」が求められていたことが、無視できない理由だったと思われる。以前は貴族などヨーロッパの特権階級しか持つことができなかったオリエント絨毯は、大衆消費社会が実現していくなか、中産階級からやがて労働者階級へと広まっていった。できるだけ安い絨毯をつくるには、糸や染色の材料費や、あらゆる工程の人件費を削減する必要がある。そうなると材料費も人件費もより安価な化学染料を選ぶのは自然なことだろう。

 

エキスパートによる染色技術

もともと欧米への絨毯輸出はペルシャよりもトルコが早かったのだが、1900年前後、トルコ絨毯はペルシャ絨毯に押されてシェアを奪われつつあったようだ。当時オスマントルコは多額の対外債務に苦しんでいることもあって、重要な輸出産業の絨毯製作で負けるわけにはいかなかった。トルコ絨毯の品質向上が課題となるなかで、化学染料を使いながらも、より美しい色を出し、水流れにも強くするなどの工夫が重ねられた。化学染料にわずかな天然染料を混ぜ合わせる、アニリンではなくアリザニンを使う、などの工夫が重ねられた。

シバスでイタリアから染色のエキスパートを招いたのを皮切りに、多くの産地でヨーロッパから染色のプロを招いて、化学染料による染色技術を向上させる努力が行われた結果、堅牢度と色の美しさにかけては一定の成果がみられたようだ。

 
                            *   *   * 

 

田村うらら氏の『トルコ絨毯が織りなす社会生活』にも、「ボヤジ・ウスタ」と呼ばれる外国人の染め職人の話が出てくる。

「本当に見事に染めるのよ、わたしたちの糸を。手早く染めるのに、何回絨毯を洗っても色が流れない。村人の誰がアニリン染料を買って染めても、みんな流れたというのに。(中略)一年に一度くらい、ふらっとやってきて、誰かの軒先で布団を借りて寝るの。染めてもらう代わりに、みんな豆や小麦やらブルグルやお金を彼に渡していた。(中略)ある年からばったり来なくなって。わたしたちはみんな、天然染料に戻った。」(P.159

同じ化学染料を使っても、やはり染める技術やコツによって、染め上がりが違ってくるようである。


                             *   *   * 

現在は化学染料も改良され、様々な媒染や配合などによって「出せない色はない」と言われている。そうかもしれない。先日、東京国立博物館で「人間国宝展」を見たとき、江戸時代の着物とともに、現代の染め職人による着物も展示されていた。テレビで学芸員さんが「こちらは草木染め、こちらは化学染料です」と説明されていたので実物を見くらべてみようと思って出かけたら、展示物に染料の説明は記載されておらず、自分の目では見分けがつかない。化学染料でもいまはじつに美しい色が出せることを知り、認識を新たにした。

にもかかわらず、わたしは染料に関しては保守派である。染め上がったばかりのときは美しくても、100年、150年経ったとき、「時が醸し出す染料の熟成」による美しさという点で、化学染料は天然染料を超えられるとは思えないのだ。

 

           日光で褪色した化学染料の赤(左)と表層を刈ったあとの赤(右)

ただし手もとにある化学染料使用の絨毯は、やっぱり大切にしてあげたいと思う。これはトルコのドシュメアルトゥ絨毯をクッションカバーにしたものだが、秋から次の春まで車のシートに置きっぱなしにしておいたら、日光で褪色してしまった。



上質のウールを使い、パイルもみっしりした良い絨毯なので、ハサミでパイルを刈りこんだ。表面がギザギザになってしまったが、鮮やかな赤が表面に出てきて、ほっとした。
この冬は、日の当たらないところにおいて重宝している。
(つづく)

2014.01.31 Friday

19世紀末のカーペットブームは何をもたらしたか 3.ウール糸

 

ドナルド・カータルト『産業革命時代のオスマン帝国製造業』からのつづき
―今回は「ウールの糸」について―


本来アナトリアの絨毯は、経糸・緯糸・パイル糸の素材は羊毛が一般的だったが、20世紀初めには多くの産地でコットンの経糸・緯糸が使われるようになる。カータルトによると、シバスやクラでは経糸や緯糸にリネンやヘンプといった麻も使われていたという。

素材の切り替えが進んだのは、経糸にコットンを使った方が歪みにくく織りやすいといった理由のほかに、羊毛糸の生産が需要に追い付かなくなってきたという事情もあるようだ。

羊毛はオスマントルコの輸出品の一品目でもあり、かつては絨毯の材料をまかなって余りあるウールがあったが、絨毯製作が激増する過程でやがて不足するに至る。

19世紀末のカーペットブームの初期には、以下のような分業体制があったという。


原毛から糸へ 

春になると、高原をテリトリーとする遊牧民が羊から新しく刈り取った原毛を商人に売る。
商人はそれをシブリヒサールの大きな市場に持っていき、そこでまた別の商人がウシャック周辺の村人に配る。
村人は泥・糞・脂のついた原毛を洗って梳いて紡ぎ、出来高払いの報酬を受け取る。
こうして出来たウールの糸はウシャックに集められ、糸のバイヤーや絨毯の織り手に販売された。
羊毛の歩留まりはおよそ半分である。
1880年代にウシャック地域で生産される原毛は約60万キロだったが、1906年には290万キロが必要とされるにいたった。
絨毯産業全体では510万キロ必要で、アナトリア産羊毛の約80%が必要になったため、羊毛の輸出は激減した。
同時に羊毛の価格が高騰し、キロ当たり3.2ピアスター(通貨単位)から8.3ピアスターになったという。


紡績機械の導入
 

絨毯製作は労働集約的産業の代表ともいえるが、中でも糸の紡ぎはもっとも手間がかかる工程だった。
19世紀後半、ウシャックとギョルデスの絨毯商人グループがウール糸の生産性を上げるため、政府からの借款によりヨーロッパから紡績機械を購入した。
だがこの時期の紡績糸は非常に硬くて使い物にならなかったため、せっかくの機械も1880年頃機械を廃棄処分をする羽目になった。
やがて19世紀末には紡績機械の改良も進み、1905年までに機械紡績が実用化された。
1895年頃ウシャックではトルコ系ムスリム商人が紡績工場を建てる一方で、バンデルマでは1902年、イギリス人のサイクスを中心に紡績工場が立てられ、ウシャック以外の地域でのシェアをやがて独占するに至る。
この他イズミルで、OCMとは一線を画す2社が紡績工場を運営していた時期もあった。

 

紡績糸の品質と社会問題

機械が改良されたとはいえ、1909年の段階でも紡績糸の品質の問題は残っていた。羊毛を梳く前の段階で脂を取りきっていないため糸が汚く、シリンダーによって繊維がつぶされ、繊維が短く、弱く、ベタベタし、その後の染め工程においても染料が浸透しにくかったのだ。

一方、1880年代から紡績工場建設に反対していたウシャック周辺の住民が、19083月紡績工場を襲撃し、エンジンルームを破壊し羊毛を強奪するという事件が起こった。この事件の背景には「青年トルコ人」運動の影響があり、紡績工場のライバル商人が糸紡ぎの職を失った住民を扇動したことも挙げられる、とカータルトは述べている。

(つづく)

2014.01.26 Sunday

19世紀末のカーペットブームは何をもたらしたか 2.オリエンタルカーペット

 

イランで活動した「ツィグラー商会」が19世紀末のペルシャ絨毯界に与えた影響は大きかったにしても、地域的にはイラン西部に限定されていた。ところが、トルコの「Oriental Carpet Manufacturer(以下「OCM」と略)」は、「一九一三年には、アナトリア全体で生産される絨毯の四分の三をおさえるまでになり、ウシャクに代わってオスマン帝国の絨毯の生産と流通をほぼ手中にした」(坂本勉『ペルシア絨毯の道』)というから大変なものである。


前回紹介したドナルド・カータルト著『産業革命時代におけるオスマン帝国の製造業』は絹製品や原材料などについても書かれているのだが、とても読み切れない。絨毯関連の章だけ辞書を引き引き読んだのだが、これが下手なテレビドラマなんかよりずっと面白かった。

OCMがトルコ最大の貿易港イズミルに設立されたのは1908年。だが、それに先立つ実態があって、1830年代後半からイズミルを拠点に絨毯の輸出入貿易をおこなってきたSpartali, de Andria, Habib & Polakoの3つの商社を中心に、バンデルマで紡績工場を経営するSykesも加わり、英・仏・伊の6社でトラストを組んだのである。合併の理由は、ウシャックを拠点とするトルコ系ムスリム商人のドンや、イスパルタで絨毯産業を広げようとしたオスマン帝国官僚兼実業家、そしてイスタンブルをトルコ絨毯の輸出拠点にしようとした別のヨーロッパ系実業家たちとの市場争奪戦を制するためだったのではないかとカータルトは示唆している。19世紀末の染色・ウールの糸・デザインの変化については後日紹介するとして、今回は「絨毯製作の普及」の章からOCMがどんな会社だったのかを考えたい。

坂本勉氏によれば、OCMは「新しい絨毯の産地を中心に十七にものぼる直営工場をつくった。またウシャックのような伝統的な産地には全部で十四もの代理店をおきながら、オスマン帝国各地にくまなく流通と生産のネットワークをはりめぐらせていった」という。「代理店」というのはおそらく、村々をラクダや馬で巡りながら、染色された糸と方眼紙を村人に配って絨毯を織らせ、織り上がればそれを回収する「仲買人」みたいなものではないかと想像している。ちなみに仲買の世界はアルメニア人・ギリシア人なども力を持っており、OCMは彼らの多くを傘下に収めていた。

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"Rugs & Carpets" by Andrew Middleton より アルメニア人が織ったカイセリ絨毯

OCMのすごいところは、バンデルマの工場で紡績した糸をイズミルの染色工場で染め、直営工場だけでなく、各地域の仲買人を通じて家庭で絨毯を織る村人に配り、「それ以外は使わせない」やり方で、アナトリアのすみずみまでを掌握していったことだと思う。(色糸を配る以前は、粗悪なアニリン染料の販売もしていたようだ)。紡績で儲け、染色で儲け、織り工程で儲け、港で儲け、卸で儲け、小売りで儲ける。「色糸と方眼紙を配って絨毯を織らせた点ではツィグラー商会も同じではないか」と言えるかもしれないが、掌握した地域の広さや徹底した合理化とコスト削減をおこなった点など、かなりキワドイ会社だったふうに思えるのである。

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同上より 19世紀末当時は「新しい産地」だったシバスの絨毯
ペルシア絨毯からデザインだけでなく、織りも「非対称結び」が使われているとのこと(トルコ絨毯は一般に「対称結び」)


当時のトルコ絨毯(特にヨーロッパにも輸出されるタイプ)の中心的生産地はウシャックで、これに加えてギョルデス・クラ・ベルガマ・ミラスなども伝統的産地であった。ところが19世紀末のカーペットブームでは、1850年代から1913年にかけて生産量が8倍になったというのだから、ウールや染料などの原材料・糸の紡ぎ手・染め手・織り手などすべてが不足し、それへの対応が求められた。絨毯を織る地域も上記のようなアナトリア西部の伝統的産地だけでなく、中央部から東部へと新しい産地が開拓され、特にシバスとイスパルタにおいて絨毯製作が盛んになった。

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"Ottoman manufacturing in the age of the Industrial Revolution" by Donald Quataert
1906年における各絨毯産地の生産高

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坂本勉『ペルシア絨毯の道』より

余談になるが、この地図に載っている「デミルジ」が絨毯の産地になった理由が興味深い。カータルトによれば、1880年に町が大火で壊滅的な被害を受け、およそ2万人が家を失った。生活の糧を求めて数百人がギョルデスに移住し、そこで手にした絨毯製作の技術を故郷に戻って広めた、ということらしい。

 

イスパルタの闘い(「オスマンのお役人、絨毯屋になれず」の巻)

あるオスマン帝国のお役人が1888年にコンヤ近郊のラディックを旅行したとき、紋章を織りこんだセッジャーデサイズの絨毯を注文した。「絨毯、イケるかも」と思ったのか、これをきっかけにひとつ自分の故郷イスパルタで絨毯の商売をはじめようと思い立ち、クルシェヒルからベテランの織り手、フェサネから染め職人などを雇ってみたがどうも上手くいかない。ウシャックに代理人を遣って絨毯製作の秘訣を得ようとしたが、トゥルトール・メフメット氏(絨毯売買により一代で財をなしたウシャック絨毯界のドン)の妨害を受けて挫折。1891年にもう一人の地方官僚と組んで株式会社を立ち上げ、セッジャーデサイズの絨毯をつくってイズミルに送った。すでにイズミルにあった商社を通さずに、直接ロンドンに売りこもうとしたが、販売網の弱さと資本力の不足により上手くいかずに、やがて解散した。

 

シバスの闘い(OCM前身の2社による「商売はこうやるもんやで」の巻)

それまでは周辺で細々と絨毯が織られているにすぎなかったシバスで、1890年に知事が300機の織り機を導入しシバスの町に絨毯産業を興そうとした。シバスの絨毯は当初からトルコ独自のデザインと色づかいではなく、ホラサン絨毯とペルシア絨毯のデザインが採用され、また一般的なトルコ絨毯に比べて二倍の細かい織りであった。1900年、3人のアルメニア人(アメリカで絨毯ビジネスを学んできた若者含む)が会社を立ち上げ、町に20台の織り機(おそらく大型)と80人の織り手を擁する工房をつくった。ここに絨毯を買いつけに来たイズミルの商社マン(おそらくOCM前身のAliotti)は、その色とデザインに満足できず、どうせならシバスに散在する絨毯工房を統合してやろう、売れるデザインを支給し、専門の染め職人を配置してやる、ということにした。言う通りにすれば、絨毯の買い取りを保障してやる、その代わり「必要かつ適切な賃金引き下げ」を呑め、と言ったのだ。その結果、Aliotti Spartali も巻き込んでシバスの主要な工房と1000人の織り手を傘下に収めたのである。これに加えて問屋制家内工業として、周辺の350の村と約1000台の織り機を傘下に置いた。

 

イスタンブルの闘い(「OCMをなめたらいかんぜよ」の巻)

シバスがイズミル商人に押さえられる一方で、イスタンブル商人がコンヤを傘下に収めようとした時期があった。ヨーロッパ出身のKeunという人物(英国人か?)が、1887年にはオスマン銀行の代表として、1897年までにはイギリスの副領事としてコンヤで暮らしていた。その一方で絨毯ビジネスをはじめ、近郊のSilleという村に工房を建てた。イスタンブルの Giustiniani という会社を代理店に、Keunは品質の高い絨毯をつくるネットワークを広げていった。絨毯の質の良さと事業の順調な発展の甲斐あって1900年には知事が、アンティーク絨毯と新しい絨毯を並べて展示する展覧会を行なってくれるまでになった。コンヤに工芸の学校が建てられ、伝統産地であるクルシェヒルの権威も事業を後押ししてくれた。1902年には品質管理システムを確立し、合格した物にデザイン・色・織り技術を保証する、市の標章を彫った鉛の印をつけることにした。1906年には、コンヤ地方で1200台の織り機と5000人の織り手が確保されていった。

カータルトの本ではこれ以降の具体的事実についての記載はないが、「イズミルで独占的な地位を占めていたOCMの前身にとって、上記のコンヤ生産者とイスタンブル商社の成功は脅威であったに違いない」と述べている。OCMの流通販売ネットワークによる業界からの締め出しや価格ダンピングなど、あくまでも推測の域を出ないのでなんとも言えないが、結果として上記コンヤ&イスタンブル組は敗北した。その後、コンヤに残った織り機や織り手はOCMの傘下に入り、1912年、織り機は4000台、織り手は1500020000人にまで膨らんだという。

 (つづく)

2014.01.18 Saturday

19世紀末のカーペットブームは何をもたらしたか 1.ツィグラー商会


 

田村うらら著『トルコ絨毯が織りなす社会生活』によると、十五世紀から十九世紀初頭までヨーロッパにおけるトルコ絨毯の受容は

1)トルコ国内に散在する伝統的生産地の織り手や工房の職人たちが手間と時間をかけて紡ぎ、染め、織るという完全に手作業の生産形態に頼らざるを得ず、常に供給過少気味であったこと

2)当時(特に十九世紀後期の合成染料登場以前)の東地中海からインドそして極東にかけての染織技術が、ヨーロッパのそれをはるかに凌駕していたこと

により、トルコ絨毯を所有することはごく一部の上層階級にのみ許された贅沢であったとしている。ところが一九世紀後半以降、大きな変化があった。

「イギリスで産業革命が始まり、やがて消費社会が成熟してくるにつけ、新たに出現した中産階級は、獲得した商品購買力を用い、従来の上層階級の生活に物質的な豊かさをもって迫ろうとした。長らく上流階級にだけ許された持ちものであったオリエントの絨毯は、彼らにとって格好の標的だっただろう。しかし、肥大化する中産階級の絨毯重要に追いつくほどの生産体制は、当時のオスマン帝国内には存在しなかった。するとヨーロッパ資本は直接、オスマン帝国内に進出してきたのである。これは、トルコ絨毯の歴史における大きな転換点と言える。」(P.32

著作はこの後、数次にわたる万国博覧会を経て「第一次カーペットブーム」が巻き起こり、「イズミルからの絨毯の輸出量は一八五〇年代から一九一三年までのあいだに、八倍にも膨れ上がった」と続いていく。

これを機会に拙ブログで、一九世紀末における絨毯製作の激変についてちょっと考えてみたいと思う。

 

絨毯関係の本を読むと、たいてい最初に「絨毯はどうやってつくられるのか」という項目があり、写真や図解入りで「羊の飼育→ウールの刈込→選別→洗浄・乾燥→梳く→紡ぐ→染色→織り」の工程が説明される。だから私も最初は、「絨毯というものはこんなに手がかかっているのか!」と驚きもしたし感動もした。この感動自体はまっとうなものだと思うが、今売られている絨毯の実態は、私の思い込みとは相当ギャップがあることもわかってきた。

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『トルコ絨毯が織りなす社会生活』でも度々引用しているDonald Quataert著Ottoman manufacturing in the age of the Industrial Revolution」によると、絨毯製作は19世紀から20世紀への過程で、「手織り」であることを除けば、それ以外の工程はすべて大きく変わってしまったというのである。

 

「デザイン」は伝統柄から欧米消費者の好みに沿うものになり、「紡ぎ」は手紡ぎから機械紡績に、「染色」は天然染料から合成染料へと「適用―拒否―再適用」の過程を経て変化し(アニリン染料の粗悪さのためペルシア政府などが禁止した時期を経て、改良されたクロム染料が受け入れられていったことを指すと思われる)、「織り作業」は家庭から工場へ、「織り機」は鋼鉄製の大型機へと変わった。(あくまでも全体的傾向としての話で、いまも天然染料を使うとか、自宅で絨毯を織る人など、例外はもちろんある。念のため)

 

考えてみれば、そうだ。昨年NHKで放送された「ギャッべ」を織るカシュガイの女性たちのドキュメンタリーでは(ちょっとヤラセっぽい箇所もあった)、Z社の社長は織り手の女性たちに「色糸の綛」を渡していた。つまり今は完全に分業体制が確立されていて、カシュガイの女性は「織るだけ」なのだ。ウールの刈込、選別、梳毛、紡ぎ、染色はそれぞれシステム化され、近代工場で行なわれているのだろう。

もちろんギャべにもランクがあるから、高級品には手紡ぎ糸が使われているかもしれない。これは推測だが、織りの初級者から上級者まで織り手の技術に見あった「デザイン画」が用意されているのではないだろうか。「ザクロの木」といった人気デザインがあるが、何枚かを見比べてみると線や色づかいが違うので、都市工房のような「方眼紙」は使われていないようだ。織り手の才覚が発揮できる余地が残されていることは個人的に好感が持てるし、天然染料を使っていることは素直にうれしい。

 

話がそれてしまったが、19世紀後半から第一次大戦にかけての第一次カーペットブームがもたらした絨毯製作の激変について、今回は当時のイランにおける代表的な外国商会であるツィグラー商会について書く。

 

「ペルシャ絨毯やトルコ絨毯の有名産地では、何百年も不変に絨毯が織りつづけられてきた」というような話をよく耳にする。だが何百年も絨毯織りがつづいてきた有名産地でも、王朝の衰退など時代の流れをうけて不振の時期もあった。また、一時は繁栄していたが今は完全に寂れてしまった産地もあれば、ごく普通の町に突然絨毯工場が建てられて一大生産拠点となった、というケースもある。

後者の代表的な例が、イラン西部のソルタナバード(現アラーク)で、そこに工場を建てたのが「ツィグラー商会」である。坂本勉著『ペルシア絨毯の道』によると、もとはスイスに拠点を置く織物などを扱う商社だったが、貿易の中継地としていたイギリスに本拠を移した会社である。対イラン貿易に乗り出した1867年は、イラン主要輸出品だった生糸が微粒子病により壊滅的な打撃を受けた年だった。折しもヨーロッパでオリエント絨毯に対する需要が高まりつつあったので、輸入の対象を生糸から絨毯へと切り替えたのである。

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                       坂本勉『ペルシア絨毯の道』 (山川出版社2003年)

 

1881年ソルタナバードに建てた工場には、織り機のほかに染色室、事務所、倉庫、社員寮があった。近所の女性と子どもを通わせて、方眼紙を渡してそのとおりの図案を織らせ、品質を厳しくチェックした。こちらは「工場制手工業」だが、一方で近郊の村で絨毯を織る人びとに、染色された羊毛の糸と図案と一定の前渡し金を渡して絨毯を織らせる「問屋制家内工業」も行なったという。これにより傘下に収めた機の数は2700台に達した(うち市内は1200台)。20年前、町には40台しかなかったというから、じつに30倍である。

坂本氏は、ツィグラー商会が絨毯製作に起こした変化として「絨毯のサイズ」も指摘している。カーペットブーム以前は、細長く小さな絨毯が多かったが、ヨーロッパの消費者に合わせた大型のルームサイズのカーペットが織られるようになったという。9×12フィート(2.74×3.66m)がその代表である。

坂本氏がもう一つ指摘しているのは「デザインの変化」である。マンチェスターの綿織物のプリント地からヒントを得た「中央に花のメダリオンを配する図柄」を考案したが、賛否両論だったという。

実際にどんなデザインだったのか私には資料がないが、手もとの本に一枚だけZiegler絨毯の写真がある。ペルシャ絨毯に詳しくない私だが、なかなかの絨毯だと思う。

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   THE MACMILLAN ATLAS OF RUGS & CARPETS より 3.50×2.83m。19世紀末のもの


ツィグラー商会がソルタナバードを重視したのは、イラン国外に絨毯を輸出するのに好都合だと判断したからである。それまでは、「産地→タブリーズ→イスタンブール→ヨーロッパ」だったのだが、ペルシア湾・スエズ運河経由の方が輸送費が安いと考えたため、ソルタナバードを選んだというのだ。

ツィグラー商会に対抗してタブリーズではイラン商人が工場を建て、絨毯生産量を拡大した。ツィグラー商会の織り手が女性と子どもだったのに対し、タブリーズの工場は、成人の男性と男児、なかでも織り手として孤児を積極的に採用したという。

 

このようにしてヨーロッパ輸出を目的とした商社の動きは、それまでの絨毯製作のあり方を大きく変えていく。次回はトルコで活動したOriantal Carpet Manufactures (OCM) という会社について。

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