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2015.12.24 Thursday

南アナトリアの「クリスマス・キリム」


近所にある県立公園の一角にあったクリスマス・コーナー。

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戦後70年にあたる今年は、戦争と平和について考えさせられるさまざまなことがありましたし、
気候変動や自然災害についても、実感として「これまでとは違う」不安感が増してきている気がします。

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いただいたクリスマス・カードに
「日本だけではなく、世界が少しでも
人に優しく、地球に優しくなれますように」
とあったけれど、本当にその通りです。

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冬でもけなげに咲いているお花たちを見習って、前をむいて歩いていきましょう。
クリスマスが少しでも「わかちあえる日」になればいいなあと願って‥‥

* * *

さて、キリムコレクターの友達が、黒っぽいボーダーでカラフルなフィールドのキリムを「クリスマス・キリム」と呼んでいて、
「あっ、いいネーミング〜!」と思って、まねっこ!
「うちにクリスマスっぽいキリムはあるかな?」と考えてみました。

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これなんかどうでしょう?
大きさは、126✖️82cmくらいの小さなキリム。

レイハンル特有の蔦模様がないために「南アナトリア」との説明でしたが、
日本の皆さんには「レイハンル・キリム」と説明したほうがわかりやすいと思います。

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前回のカモ・ソフレと並べてみると‥‥

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織りの細かさがこれだけ違います。

右のカモ・ソフレには毎日のハードな実用に耐える堅牢さが求められる一方で、
左はおそらくテーブルにかけたり壁に飾ったりするための
「装飾品」の役割を持つ「商品」として織られたものと思われます。

(興味のある方は「レイハンル・キリムの謎 その9」をご覧ください。
19世紀末のヨーロッパで、イランのセネ・キリムがテーブルに掛けられたり、
大型のアナトリア・キリムがカーテンとして使われたりしています)

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畳むと厚みのちがいは歴然。

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キリムの端を持ち上げてみると‥‥

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「布」といったほうがふさわしいですね。
この写真にも二箇所、白い「補修糸」での応急処置がみられますが、
ほとんど使われていなくても、薄いキリムはどうしても傷みやすいようです。

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フリンジもけっこう残っています。

また、レイハンル・キリムにはコチニールがよく使われる一方で、茜はあまり使われない印象がありますが、
このキリムには、コチニールと茜の両方が使われています。
手前の赤が茜、その後ろのピンク系がコチニールです。

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一枚のピースに何色もの色が使われているレイハンル・キリムの染色は、たぶんプロの染色職人によるもので、
各家庭で糸を染めたと思われるカモ・ソフレと、そういう意味でも異なります。

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緑や水色に強いアブラッシュ(染めむら)が出ているのも一つの特徴でしょうか。

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ユーモラスで愛らしいモチーフ。
レイハンルでも大型キリムのデザインとはかなり違っていて、
キリムの書籍などでは、ほとんど見られないデザインです。

レイハンル・キリムのデザインの大もとは、おそらく部族のオリジナルな文様だったのでしょうが、
こちらの最初のピース)
それらがバザールで人気を博し、ひいてはヨーロッパ市場にも「商品」として売られていく過程で、
部族とは無関係のデザインも取り入れられていったのではないかと推測します。
でも証拠も何もなく、まったく推測の域を出なくて残念です。ゆう★ 

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糸の質と使われている色やフリンジの処理などから産地を推測しているわけですが、
このデザインがどこから来たかについては「今後の課題」ですね。(と逃げる‥Docomo_kao8

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それでも、眺めていて楽しい色とデザインです。

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「おもちゃのマーチ」
やっとこ やっとこ くりだした
おもちゃのマーチが ラッタッタ
にんぎょうのへいたいも せいぞろい
おうまもわんわも ラッタッタ

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ボーダーの文様がキャラクターに見えてきました〜

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知らないひととも すこしでも 幸せをわかちあえますように。

どうぞ素敵なクリスマスを〜!
2014.11.27 Thursday

レイハンル・キリムの謎 その10

「……かもしれない」の巻

さて、今回で「レイハンル・キリムの謎」はひとまず終わりますが、
最終回といっても、なにか結論めいたものがあるわけでもアリマセン。ゆう★

これ以上ダラダラつづけても展望ないから、というのが本音ですが、新しくわかったこともあるのが慰め。

「その9」で、19世紀末にレイハンルキリムが売られていたというフランスの百貨店"AU BON MARCHE" ですが、
今もパリ7区に君臨する「ボン・マルシェ百貨店」という超有名なデパートなんですね〜!
なんでも1852年創業の世界初の百貨店とのこと。
(ちなみに1989年、店名を Au Bon Marché から Le Bon Marché に変更したようです)

で、あの記事を書いた後、「あれ〜、そういえばフランス語のタグがついているキリムあったな〜」と思いだし、
「あれもカーテンに加工されてたから、もしかして……」と、取り出してみました。

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A‐HA! AU BON MARCHE PARIS!

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キリムはおそらく中央アナトリアのもの。やさしい卵色や藤色が特徴で、茶色の糸がかなり朽ちている。
120年くらいはありそうな古いキリムだけれど、上部に縫いつけられている芯地は比較的新しい。
最初はもっと長かったのが、普通の部屋のカーテンにするために上部をカットされ、現在の2mにされた可能性が強い。

最終回になっても話にまとまりがなくて申し訳ないけれど、
「レイハンル・キリムは商業目的に織られたのか?」という問いにたいして、
19世紀末にはレイハンルだけでなくアナトリア各地の大型キリムが「カーテン」としてフランスの百貨店で売られていた、
という、当初は想定していなかったケースが出てきたのである。

* * *

さて、もう一度本題にたちかえってレイハンルの話をすると、

わかったこと、または可能性が強いと思われること

・「レイハンル」の名称は、現ハタイ県レイハンルという「地名」以前に「部族」の呼称にちなむ。

・Reyhanli tribe もしくは Reyhanli confedelation は、複数のエスニック集団によって構成されていた。

・かれらはアレッポからシヴァスにかけての土地をテリトリーとしていた。

一部のレイハンル・キリムは、19世紀末に商品としてフランスへ輸出された。

・16〜18世紀をピークとしてアレッポは国際交易都市として繁栄し、その周辺一帯も活発な市場圏として機能していた。

・アレッポを経由する物資には、インド産のインディゴなどの染料と綿、ペルシア産の生糸や絹製品、すなわちテキスタイル関連のものが多く含まれていた。

 
・現レイハンルは、アレッポとその主要な貿易港だったイスケンデルンのほぼ真ん中にある。
・アレッポーイスケンデルン間はラクダで約3日の距離で、当時は「トルクメン(トルコでの呼称)」がラクダによる物資の運搬を担っていた。

上記以外はほとんど「わからないこと」と言ってもいいが、特にわからないこと

1.上記「トルクメン」と「
レイハンル部族」との関係は?

18世紀後半以降、国際交易の中心がアレッポからイズミルに移るに従ってトルクメンは西方に移動したといわれている。
アレッポ周辺に残った者もいると想像されるが、かれらがレイハンル部族の一部となったのだろうか?

2.複数のエスニック集団である「レイハンル部族or連合」は、何のために連合を組んだのか?

レイハンル部族が隊商活動に関わっていたとすれば、動かせるラクダの数は多い方がいい。
「大きな仕事があるぜ〜」というとき、傘下の遊牧民に声をかければラクダがすぐ集まる……とか?

アレッポ周辺に居たトルクメンの大半が西方に移動したため、残った者は少数派になっただろう。
テリトリー的に近かったクルド族との力関係を均衡に保つために、一定の勢力が必要だった……とか?

あるいは、政府の定住化政策の後押しもあり、定住農耕民との軋轢がそれまで以上に強まったため、
遊牧民どうしの協力関係を強くすることによって、農耕民にナメられないようにした……とか?

3.レイハンル・キリムの糸や染色に、部族員以外の「手」がどれだけ関わっているのか?

 
・もしかしたらレイハンルは隊商活動で儲け、だからあんなにゴージャスなキリムが織れたのかもしれない……とか
・もしかしたら近くに腕のいい染色職人がゴマンといて、染色はプロまかせだったかもしれない……とか
・アレッポ周辺は繊維産業が盛んだったから、綿とウールの混紡糸は市場で売ってたのかもしれない……とか
・いやいや、あの細いウール糸自体が素朴な紡錘器じゃなくて、高性能の糸車で撚られたものかも?……とか

ことごとく、なんの証拠も得られていません! 
沈

4.レイハンル・キリムは商用目的に織られたのか?

この本来の疑問に関しても、なんの証拠もないのだけれど、
でもまあこれは、「一部のキリムは売るために織られた」と答えていいと思う。

遊牧民は市場で乳製品や羊毛などを売って、そのお金で小麦粉などの食料や生活必需品を買う。
売るものの中にキリムや絨毯が含まれていたのは、たぶん太古の昔からのこと。
定住する農耕民の側も、もちろん自分で織る人も多かったとは思うが、
「農作業にゴザが要る」、「土間が冷えるから何か敷物を」といった理由で、市場で買う人もいたはずだ。

ただおそらく、レイハンル・キリムが他と違うのは、その品質の高さと高値で取引された(であろう)ことではないだろうか。
「レイハンル・キリム」として売られているものにはけっこうバリエーションがあるようなので一概には言えないが、
基本的には「過酷な使われ方には向かない」、薄くて華奢なキリムこそ、「売るために織られたレイハンル」という気がする。

レイハンル部族がどれくらい昔から「艶のある細い糸・透明感のある染色で多色使い・装飾性の高い意匠・細かい織り」
のキリムを織っていたのかわからないが、
最初は、特に品質が高いとも思わずに市場へ持っていって売ったら、予想外の高値で売れた。
「こういうキリムなら高く売れるらしいぞ」ということがわかると、腕を競うように凝ったキリムが織られるようになった。

まあ、いろんなバージョンがあるとは思うけれど、
レイハンルは大きなものも二枚はぎで、織り機のサイズは一般的な遊牧民サイズなので、
幅の広い織り機を持つ
「工房」は無く、それぞれの家庭で織ったと思われる。

アレッポでは目利きのアルメニア商人やギリシア商人が、レイハンルキリムに目をつけた。
「これをヨーロッパに持っていけば、さらに高値で売れる」。
あとは「その9」で書いたようにフランスの百貨店を経由して「カーテン」になったりもした。

もしかしたら「カーテンサイズはもう持っているから、テーブルを飾れるような小ぶりのキリムが欲しいんだけど……」
というヨーロッパ人の需要があったかもしれない。

だから、こんなキリムも生まれた……かもしれない。

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右側はこれまでにもご紹介した「典型的なレイハンルの意匠」のキリム。

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左側はやはり大型のレイハンル・キリムにも使われる意匠の小さめキリム。

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真ん中は、あまり見たことのない意匠だけれど、たぶん「売るために織られた」アナトリア南東部のもの。

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自分でもあきれるほどまとまりのない「レイハンル・キリムの謎」でしたが、
これからもたくさんの「わからない」を胸に抱いて、考えつづけていきたいと思います。
読んでくださって、本当にありがとうございました。<(_ _)>
 
2014.11.17 Monday

レイハンル・キリムの謎 その9



さて今回は「キリム」という本題に立ち戻り、

「レイハンル・キリムは商用目的に織られたのか?」について考えてみたい。



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このド迫力のあるレイハンル・キリムは、このシリーズの「その1」で取りあげたもので、

「キリム下部のトーテミックモチーフが途中でちょん切れ、4重ボーダーのうちの1つだけ織られている」ことから、

もしこれが「商品」として織られたのなら、そんな乱暴な処理はありえないのではないか? と書いたのであった。



下部のフリンジが残っていることや、このキリムが購入された時代背景を考えれば(1887年)、

第三者による「修復」を経てこうなった可能性は低いように思う。

つまり、もともとオリジナルの状態から、モチーフはちょん切れていた、と思われるのだ。



ここでまた新たな疑問が発生する。

スウェーデン人がどうやって1887年にこのキリムを手に入れたのか? ということである。



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今回は "The Hallwyl Collection of Oriental Carpets and Textiles" (2003)から画像を引用させてもらう。

ストックホルムで出版された本なのでスウェーデン語なのだが、一部が英語に翻訳されている。







こちらがコレクターの Wilhelmina von Hallwyl 伯爵夫人(1844-1930)。

幼いころから美術品に興味があり、「将来は美術館をつくりたい」という夢を持っていたというからスケールが大きい。

美術品といってもその対象は絵画が中心で、絨毯やテキスタイルはどちらかというと邸宅を飾るために購入したようである。



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じゃーん! おウチといっても伯爵さまはレベルが違うざんす。

敷かれている絨毯はそれなりに大きいはずだが、部屋が広いため絨毯が小さく見える。

壁のタペストリーが大迫力! フランスのものだろうか?



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以前「最も古くから商品化されていたキリムはセネ・キリム」と書いたことがあるが

ここでもセネ・キリムがテーブルカバーとして使われている。

セネ・キリムの精巧さが、クラッシックで重厚な家具によく似あっている。



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カタログのNo.42がこのキリムのようだ。

1901年にカイロの絨毯商から購入とのこと。



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彼女は夫や友人とともに、ヨーロッパや北アフリカなどをたびたび旅行している。

このセネ・キリムもこの頃に購入したようだ。



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こちらは No.41セネ・キリム。同じ年にカイロ在住のシリア人ディーラーから購入。




このカタログに載っているキリムは、このセネ2枚と、

そしてなんとアナトリアのキリムが7枚もあるのだ! ゆう★



絨毯は古くから価値ある「商品」として流通してきた歴史があるが、

キリムは長い間「貧乏人の粗末な絨毯」程度にしか思われず、

その価値が見いだされるのは1960年代のヒッピーの時代……

というのが、一般的な認識だと思う。



1967年にワシントンのテキスタイル・ミュージアムでキリムが初めて展示品の一部に加えられ、


2年後に西アジアの平織りラグの展示会が開かれたーーそれがキリムが美術工芸品として認められるようになった幕開け、

というくだりが、渡辺建夫著『キリムへの旅 トルコへの旅』にもでてくる。



ところがこのカタログのアナトリアン・キリムは、19世紀末に「商品」として購入されているのだ。




先にあげたレイハンル・キリム以外には、つぎのようなアナトリアのキリムが載っている。



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No.1 アレッポ・キリム 19世紀第四四半期のものとのこと。

このデザインに似たキリムが「アダナ・レイハンル」として売られていた記憶がある。



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No.4 中央アナトリア。19世紀後半。



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No.5 南部アナトリア。クルド族のもの。19世紀後半。

キリムのオリジンについては異論があるかもしれないが、とりあえずカタログどうりに記載する。



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No.7 "Rashwan" クルド。中央アナトリア。19世紀第四四半期。



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No.15 アイドゥン 19世紀後半



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No.16 おそらく中央アナトリア 19世紀後半



以上がカタログに載っているアナトリアン・キリムである。

この他トルコの小さめ絨毯もたくさんカタログに載っているが、今回は割愛するとして、

夫人はこれらをどう使ったかというと……



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No.15 と No.16 のキリムはカーテンに使われていた〜! マジで

ついでにカーテンのそばにあるイージーチェアを見ると……



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ハムセをはじめとした南ペルシア遊牧民の袋は、加工されて「家具」になっていたのでアル〜泣き



夫人は1886-87年にわたりこれらのアナトリアン・キリムと家具をリの"AU BON MARCHE"というデパートで購入した。




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画像は傾いていますが、いいお客さんがいたからデパートの経営は傾いていなかったハズ……



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こちらは1892年発行のレシート。

(カンケイないけど、昔の印刷物ってキレイ♪)



夫人のコレクションの入手先は様々であるが、アナトリアン・キリムの入手先はほぼこのパリのデパートのようである。

逆にいうとこのパリのデパートにとって、アナトリアン・キリムは主力商品のひとつであったかもしれない。



1960年代における「キリムの発見」が、「実用品」を超えた「美術工芸品」としての認識であるにしても、

一部のキリムはけっして「貧乏人の粗末な絨毯」という扱いにとどまらず、

はるか以前の19世紀末から「ヨーロッパの富裕層が室内を彩るための高級商品」として流通していた、ということになる。



では、これらのキリムはどのようなルートでパリのデパートに渡っていったのだろうか?

19世紀末にはトルコ西部のイズミルが対ヨーロッパ貿易の拠点となっていたので、イズミル経由も考えられるし、

フランスは19世紀末から20世紀初めにかけてシリアに進出していたことから、アレッポ経由もおおいに考えられる。



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1900年ごろのダマスカスのバザール。

スウェーデン語による説明が全然読めないので、どういう脈絡でこの写真が使われているのかわからないのがクヤシイ。



* * *



このシリーズは、いわゆるレイハンル・キリムが「商用目的に織られた」かどうかを考えているつもりなのだが、

「キリムを売る」といっても、いろんな形態が考えられると思う。



・急に現金が必要になり、とりあえず家にあったキリムをバザールに持っていって売る


・バザールで売ることを目的とし、女が自宅でキリムを織って、男がバザールで直接それを売る

・定期的に回ってくる仲買人に売ることを目的として、キリムを織る。仲買人は独自のルートで他に売る、などなど



こういった「売り方」は、レイハンルに限らず至るところで行なわれていたと思われる。

キリムの品質もピンキリだったし、品質に見合って値段にも幅があっただろう。

染色も模様もないゴザ程度の素朴なものから、多色づかいの豪華で細かい織りのキリムまで……



わたしは、レイハンル・キリムが具体的にどういう形態で織られ、売られていたのか、それが知りたいのだ。
例えば一番上のキリムがもし自家使用のものだったとしたら、どのように使われたのか…



糸は自分たちが飼っていたヒツジのウールを使って手で撚ったものなのか。

ウールとコットンの混紡糸は、自分たちが撚ったのか? コットンはどこから入手したのか?

染色は自分たちでやったのか、プロの染色職人に頼んだのか?

装飾性の強いデザインは先祖から伝わったものなのか?

……

疑問はつきず、たぶん答えは得られないだろう。



でも、こうやって考えること自体、それなりに楽しい。



答えのない「レイハンル・キリムの謎」も、次回でいったん締めくくることにする。

誰も期待していないでしょうが、最終回をよろしく〜〜〜! ゆう★










2014.11.09 Sunday

レイハンル・キリムの謎 その8


「アレッポ市場圏の構造と機能」その2

前回につづき永田雄三氏の資料をもとに、アレッポとその周辺地域について見ていきたい。

アレッポ周辺の活性化

氏が強調しているのは、アレッポ市場圏の繁栄によって、
アレッポだけでなくその周辺の町や村の産業も活性化していったことである。

十六〜十八世紀のアレッポ市場圏はイランの絹とインドの綿織物を水葉運と陸運の双方を
通じて国際市場に結びつける役割をはたし、そこに多くの人々がかかわっていた。しかし、
アレッポ市場圏が持続性を維持することができたのは、たんに中継貿易によるだけではない。
アレッポ市場圏に組み込まれた「スグ―ル(注:境界域)」、
すなわち南東部アナトリア、イラク・シリア北部の諸都市が
キャラバン・ルートによってもたらされる技術と情報によって刺激を受けて発達させた
手工業品を市場にのせる可能性をみいだした結果、商工業が活性化したからでもある。(P.156)

たとえば、ディヤルバクルでは織物業が発達し、
「キルバース」と呼ばれる茜で染色された綿布は18世紀、マルセイユに盛んに輸出されたし、
同地の赤色モロッコ革はレヴァントの最高級品として、フランス王立図書館蔵書の装丁に使われた。
両者の原料に使われる茜はグルジア産で、エルズルムを経由してディヤルバクルに運ばれた。

また、中部アナトリアのトカトでは綿織物と捺染が盛んになり、
高い技術を有する織布と更紗はクリミアやロシアのほかヨーロッパ各地へも輸出された。

両都市のいずれも、アルメニア人、ギリシア人、ユダヤ教徒が多く住み、
商業に深く携わっていたことも忘れてはなるまい。

アレッポ市場圏と遊牧民との関係

資料には遊牧民との関係を示唆する部分もあった。

ひとつには、ティグリス川の水運で使われた「ケレキ」という筏の材料として
山羊の皮が使われていたことである。
「ケレキ」というのは、羊や山羊の皮を縫い合わせて風船のようにふくらませ、
それを40〜60個ほどつなげて木の枠組みで囲い、上にゴザや絨毯などを敷いたもの。
羊や山羊の皮、そしてゴザや絨毯はおそらく遊牧民による産品と思われる。

筏といっても数隻レベルの話ではなく、イラン戦役のための糧食の運搬に使われたため、
「三百隻のケレキに必要な二万五千枚のヤギの皮はアレッポ州内で買い上げられ」たとか、
「一七二六年にオスマン軍団の糧食をのせてバグダードに行ったケレキはそこから二千頭のラクダでディヤルバクルに戻された」
といった史料が残っており、大きな事業であった。

もうひとつ遊牧民のようすを伺えるものとして、
市(バザール)での売買の記述がある。

ヒツジは乳から得られる乳製品(クリーム、バター、チーズ、ヨーグルト)ばかりでなく、
毛・皮・肉・内臓・頭・ひずめなどのすべてが商品価値をもっている。遊牧民はこれらを原料として
数多くの手工芸品・食料を生産し、農耕民の生産する穀物・果物・野菜などと交換し、
あるいはまた都市民の手工業商品を購入することによって生活していた。

このため、遊牧民が大きな集団をなして乳製品をつくり羊毛を刈る夏営地や
季節移動の道筋にあたる村や町にはしばしば大きな市が立った。
たとえば、中央アナトリアのスィヴァス南方のイェニイル群のバーザールでは、
家畜・穀物・果物・野菜・乳製品のほかに、
胡椒・チョウジのような香辛料、奴隷、インディゴ、鋼、錫、
家畜、フェルト、絨毯、キリム(平織りの敷物)など多彩な商品が売買されている。

トルコの人類学者ベシクチによれば、
この地方の遊牧民は、
毎年四月末以降、
東・中部アナトリアにいたる広範な地域へ200〜250キロ移動する。

途中男たちは村や町に立ち寄って夏営地で生産した畜産品を売却するために
商人たちとあらかじめ商談をまとめておくのが常だった。

十一月になるとふたたび冬営地のあるアレッポ近郊に戻ってくるが、
そのとき道中にあたる村や町では
彼らの畜産品を買い取るために商人たちが待ちかまえていた。

アレッポ市内でも北東部のバーンクーサーから北東に向かってカールリク門まで
伸びる道が、イラク・イラン方面やアナトリア南東部からくるキャラバンの通るところで、
店舗では馬具やテントなどさまざまなキャラバン用品が売られる
マディーナにつぐアレッポ第二の繁華街であった。(PP.153-154)

(バーンクーサーとカールリク門の位置は、前回記事の2枚目の地図参照のこと)

アレッポ市場圏における「トルクメン」

永田氏によれば、16世紀後半から18世紀半ばまでのアレッポ市場圏において大きな役割を担っていたのが「トルクメン集団」だという。

(注:中央アジアのトルクメンではなく、アナトリアに入ったオグズ系遊牧民のことだが、
トルコ領内の「ユルック」「トルクメン」の区別について、私はいまだによくわからない。
永田氏の資料では「アクコユンル」は「トルクメン」とされているが、ボーマー氏の
"NOMADS IN ANATOLIA" では「アクコユンル」は「ユルック」とされている。
とにかく今回は永田氏の記述に従って、以下にまとめた)

アナトリア西部のユルックはすでに定住化が進み、小集団に分裂していたが、
アナトリア東部の遊牧民(トルクメン)は大きな集団を形成し、
十六世紀にもなお中央アジア時代のオグズ部連合の組織を比較的よく残していた。

16世紀に作成された「検地帳」に、次のような数字が残っている。
・アレッポ・トルクメン 9000戸
・ボズウルス・トルクメン 4600戸
・ズルカドルル・トルクメン 2800戸

アレッポは冬営地の地名からだが、
ボズウルスとズルカドルルは、オスマン朝以前にアクコユンル朝(白羊朝)、
ズルカドルル侯国という国家をつくった部族連合の残党である。

1戸当たりのヒツジの数はだいたい300〜500頭で、
16世紀の法令では、ヒツジは1頭につき1アクチェの租税収入が徴収されており、
これは政府にとっても大きな収入源であった。

トルクメンのラクダ

アレッポ市場圏南部の砂漠や平坦地ではアラブ遊牧民のヒトコブ・ラクダが活躍したが、
アナトリアではトルクメンが改良したヒトコブ半のラクダが活躍した。
このラクダは​
繁殖力はないが、力が強く耐久力があり、一頭で200〜250キロの荷物を積んで一日に25〜30キロ歩く。

遊牧民のなかには、畜産品を売って収入を得るだけでなく、
ラクダを所有して国際商品や軍隊の必需品の輸送に携わる者もいたのである。

戦争その他の理由で大量に物資を運ぶ必要が生じたときには、しばしばラクダが使われた。
一例として、1638年のバグダート遠征時には
「アレッポ・トルクメン」と「イェニイル・トルクメン」から730頭のラクダが借り入れられ
一頭当たり25クルシェの賃借料が払われたという史料が残っている。

オスマン帝国の地方行政区分は、州(エヤーレト)、県(サンジャク)、郡(カザー)からなっていたが、
「アレッポ・トルクメン」と「イェニイル・トルクメン」は「郡」として掌握されていた。

遊牧民集団が「郡」として位置づけられている場合には、カーディー(法官)が共に行動するのが常であったという。

だがやがて国際貿易の中継拠点がアレッポからイズミルに移るにしたがい、
ラクダによる運搬業を生業としていたトルクメンたちは西方に移動した。
さらに鉄道の発展によって1960年代にはラクダによる運搬は廃れ、彼らの一部は匪賊化したという。

* * *

 
ここで永田氏の資料から離れるが、松原正毅『遊牧の世界』にもラクダ運搬の話がある。
アンタルヤに冬営地をもつチョシル・ユルックも、1960年代の初めまで
夏営地から秋営地における現金収入のおもな方途は塩の売買だった。


アナトリア中央部の「トゥズ・ギョル(塩湖)」で露天掘りされた塩を買い取って、
ラクダに積んで運び、離れた村で売る。
仕入れ値と売値の差額が、遊牧民にとって貴重な現金収入となっていた。
さらに昔は塩だけでなく、洗濯用の木灰や、インゲンマメや小麦などの運搬も行っていた。
しかしモータリゼーションとともにラクダ運搬業は廃れ、
遊牧生活から離れざるを得ない一因となっていった。

* * *

うまくまとめることができないが、
16世紀から18世紀にかけてのアレッポとその周辺の状況を知ることで、
少しずつではあるが、レイハンルをめぐるイメージがぼんやりと浮かびあがってきた。

もっともレイハンル部族それ自体についてはほとんどわからないままではあるが、
「想像」をするにしても、アレッポのようすを知ると知らないとではやはり違ってくると思う。

しょー懲りもなく、「レイハンル・キリムの謎」についてつづけます。
えっ、もうヤメロって?! どーも、すいません。(^_^;)


 
2014.11.05 Wednesday

レイハンル・キリムの謎 その7


「アレッポ市場圏の構造と機能」その1

ダラダラ、ヨロヨロ、ずっと低空飛行をつづけてきたこのシリーズ、
いよいよ追いつめられて、今回は「なんの根拠もない想像だけの記事」になるはずだったが、
ひょんなことから価値ある資料に出逢ったので、それを紹介することにする。ホッ! kyu 

「地域の世界史」シリーズ第9巻『市場の地域史』(佐藤次郎・岸本美緒編 山川出版社 1999年
供仝魄廚斑亙社会の形成 第二章 アレッポ市場圏の構造と機能(永田雄三氏執筆)である。

このシリーズは「国家の視点ではなく、地域の視点から歴史全体を見直そうとする試み」とされており、
そういう意味でも興味深い。

* * *

永田氏による「アレッポ市場圏の構造と機能」は、16世紀後半から18世紀半ばまでの「アレッポ市場圏」を論じたものである。
つまり当時の国際貿易の中心であった都市としてのアレッポのみならず、それを支えた市場圏全体を見てみようということだ。
 
「レイハンルキリム」が都市アレッポと深い関係があるのではないか、という関心のもとに、この資料を読んだのだが、
部族であれ町の名前であれ、「レイハンル」はここに登場しない。

名前が挙げられている遊牧民は「トルクメン」と「クルド」であり、
とりわけトルクメンはラクダを使って物資の運搬を行い、アレッポ市場圏の重要な役割をはたしていたが、
18世紀後半以降に国際貿易の中心地がイズミルに移行するにともない、西方へ移動していったとされている。

これは想像にすぎないが、レイハンル連合はトルクメンが西方に移動していった後、
アレッポとの関係を深めたのではないか? という気がする。
ともあれ今回はレイハンルのことは脇において、アレッポについてお勉強してみますた。 ( ..)φ

* * *

当時の時代背景=オスマン帝国の最盛期

スレイマン一世(在位1520〜66)がサファヴィー朝を制してタブリーズを占領し、バクダードにも入城してイラクを制する。
またインド洋遠征を経て、帝国の版図をアラビア半島南岸に拡大して、イエメン・アデン・マスカットを占領。
スペイン・ヴェネツィア連合艦隊を破り、東地中海の制海権を獲得。
これによりオスマン帝国は地中海からインド洋におよぶ広大な地域を統合した。

「輸入奨励」の商業政策

当時のヨーロッパ諸国が、関税障壁を設けて国内産業を保護する重商主義政策を採っていたのにたいし、
オスマン帝国は、外国製品に大きく門戸を開いて輸入を奨励していた。

領事裁判権を認め、外国商人に居留地での自由な通商活動、税の優遇措置、生命・名誉・財産の補償をする
通商特権(カピトゥレーション)制度を設け、
1569年フランスに与えたのを皮切りに、1580年にはイギリスにも与えた結果、
イギリスは翌年レバント(東地中海貿易)会社を設立し、83年以降アレッポに領事を派遣

また領内に住む非ムスリム諸民族を「啓典の民」と位置づけ、彼らの宗教的自由をほぼ認めていた。
とりわけギリシア人、アルメニア人、ユダヤ教徒商業金融の分野で活躍。


アレッポの地理的条件

北部の山岳地帯、西部(シリア沿岸部)の農業地帯、東部の砂漠地帯に囲まれた自然環境という狭域の経済圏に、
河川が加わることにより広域の市場圏として機能した。
河川:ティグリス・ユーフラテス
港:イスケンデルンビレジキディヤルバクル

2014_1104_111154-PB042760.JPG
「アレッポ市場圏の構造と機能」『市場の地域史』P.130 より

この地図全体がアレッポをささえる市場圏と見てよい。かなりの広域である。

水路 ペルシア湾〜インド洋ルート

ビレジキ ー(ティグリス川)ー バスラ ー (インド洋) − インド、東南アジア、中国
ディヤルバクル ー(ユーフラテス川)− バスラ ー (インド洋) − インド、東南アジア、中国

両川によりインド・東南アジア・中国からの香辛料・綿織物・染料(特にインディゴ)・陶磁器が運ばれた。

 
水路 地中海ルート

アレッポ − イスケンデルン − (地中海) − ヨーロッパ

上記のインド・東南アジア・中国からの物資が、地中海を経てヨーロッパに運ばれるとともに、
アレッポ周辺で産出される物資もこれに加わった。
すなわち、遊牧民による畜産品、砂漠地帯の塩や硝石、アナトリア諸都市の手工芸品などである。

陸路 

当時の陸路は、ラクダ・馬・ラバによる輸送であった。
ビレジキ・ディヤルバクルとアレッポ間は、地図のような陸路でつながっていたが
ペルシアとは水路と陸路の両方でつながっており、とりわけ17世紀以降にはが重要な交易品となった。



コーカサス山麓からカスピ海南岸はすぐれた養蚕地帯で、
サファヴィー朝のシャー・アッバース大帝は、1604年以降、東部アナトリアのアルメニア人を
イスファハン郊外に強制移住させて絹貿易に従事させ、
タブリーズ・イスファハン、ヤスド、シラーズなどで織物に製品化して輸出することもおこなった。
大帝は絹貿易を専売制のもとにおいていたが、彼亡き後はアルメニア人商人が貿易のイニシアチブをとった。

当時ペルシアの年間生絹生産量は1000トンで、その三分の二アレッポを経由してヨーロッパへ輸出された。

オスマン帝国最大の国際貿易センターとしてのアレッポ

アレッポは古代からの交易都市であったが、16世紀後半から18世紀半ばまでオスマン帝国最大の貿易センターとして機能した。



「スーク」と呼ばれるバザールには、「ハーン」と呼ばれる隊商宿や数多くの舗が軒をつらねていた。
ハーンの一階は、運搬されてきた商品の販売や倉庫として使われ、しばしばコーヒーハウスや床屋が併設され、
二階は、旅行者、出稼ぎ人、移動商人の宿泊施設となっていた。

ここまでは多くの交易都市と共通することだと思うが、当時のアレッポは、
商業活動のみならず、政府の監督の場所として機能していたことが伺われる。

オスマン帝国は1516年にアレッポを支配下におくと、ここを州都として総督を派遣した。
総督は「サライ(館)」をかまえて州の行政にたずさわり、
カーディー(イスラム法の法官)が町の日常的な業務を総括した。

ハーンのうち、アレッポに赴任してきた総督がワクフ(イスラム信託財産制度)により建てたものが重要で、
商品が荷下ろしされて計量されたり、遠隔地からの商品にたいする関税が支払われたりと、
政府の監督が行き届くようになっていた。

オスマン帝国が輸入奨励の政策を取っていたことは前述したが、
ヨーロッパ人たちもアレッポでハーンの部屋を借りて国別に領事館商会をおき、そこに居住していた。
ヴェネツィア、フランス、イギリス、オランダが領事をおいていたほか、
インド、ペルシアなど、アレッポ市場圏と深くかかわる地域からこの町に住みついている人々もいた。

18世紀半ばにアレッポを訪れたイギリス人ラッセルによれば、この町の人口構成を
ムスリム85%、キリスト教徒13%、ユダヤ教徒2%と推定している。

(ぷぎー注:キリスト教徒にはアルメニア人も含まれ、商才にたけたアルメニア人・ギリシア人・ユダヤ教徒が
ムスリムとヨーロッパ人との商取引をむすぶ重要な役割をはたしていたと思う)

当時のアレッポ市場圏は、今日みられるように「国民国家」の国境によって仕切られることなく、
また、ティグリス・ユーフラテス両川自体がダムによって分断されることなく、
東南アジアやインドと中東、ヨーロッパ地域を結び付ける交通路の役割をはたし、人々は自由に往来していたからである。
つまり、ここは「辺境」や「後進」地帯、民族紛争の場ではなかった。
(PP.128-129)


と筆者が述べるように、当時のアレッポは私たちの想像を超える文明の十字路だったのである。
この資料の紹介は1回ですまそうと思っていたけど、安いアタマがショートしてきたので次回につづきます。ガーンネコ
それでは。
2014.10.25 Saturday

レイハンル・キリムの謎 その6


"FLATWEAVES OF TURKEY" には、
かつて「レイハンル部族(Reyhanli tribe)」と呼ばれるグループがあり、
現在ハタイ県にあるレイハンルという地名は、彼らの名前に由来していると書かれている。
また「レイハンル部族」には、シヴァス付近まで季節移動を繰り返すグループもいた、ということである。

地図.JPG
地図  "FLATWEAVES OF TURKEY" より)

最初これを読んだとき、ハタイのレイハンルとシヴァスは直線距離にしてざっと400kmほど離れているので、
「仮にかれらが遊牧民であり、レイハンルが冬営地、シヴァスが夏営地だとしたら、
羊や山羊を連れて、そんな長距離を移動できるのだろうか?」という疑問が湧いた。
地図上の直線距離で400kmなのだから、実際の道は曲がりくねっているから、もっと長距離のはずである。

以前、松原正毅著『遊牧の世界(上・下)』(中公新書)を読んだとき、
家畜を連れての季節移動がどれほど大変な行程なのか、命がけの移動なのか、強い印象を持ったからである。
松原氏が調査されたのは、アンタルヤ湾北側の平地と山間地を移動するユルックの人びとの暮らしだったが、
夏営地と冬営地との距離はおよそ100km強であり、それでもじゅうぶんすぎるほど過酷な移動だったのである。

レイハンル部族が、季節ごとに家畜を連れてその4倍以上の距離を移動するとは信じがたい、というのが第一印象だった。
ただし、ボーマー氏も "Reyhanli Confedelation" という言葉を使っているし、
レイハンル部族はいくつかのグループから構成されており、その全体としてのテリトリー
現在のハタイ・レイハンルからシヴァスあたりまでだった、と考えれば納得できる。

2014_1019_122219-PA192739.JPG地図◆ 柄扱破椶茲蝓法.織Ε蹈校殻の位置に注目

またボーマー氏の "NOMADS IN ANATOLIA" には、かつてのトルコにおける遊牧民の移動ルート資料が掲載されている。

2014_1019_122130-PA192738.JPG
地図 ("NOMADS IN ANATOLIA" P.46)

緑色の実線は遊牧民が移動していたことがほぼ裏付けられているルート、点線は推定の移動ルートである。
トルコ西部から中央部にかけては、ユールックやトルクメンと呼ばれる遊牧民グループのものと思われるが、
この地図の右下、つまりトルコ南東部から北側にかけての実線をたどってみよう。

さらに地図を地図△搬仂箸靴覆ら、レイハンルやアレッポがどのあたりに位置するのか割り出してみた。

私がつけ足した(歪んだ)●は、ピンクがアダナ、がレイハンル、水色がアレッポ、黄色がガジアンテップ、
そしてずっと上方のがシヴァスである。(あくまでも大体の位置なのでご容赦を!)

な、な、なんと! ゆう★
たしかにレイハンルからシヴァスまでは遊牧民の移動ルートだった、ということが示されているではありませんか!
この実線部分が、レイハンル部族のテリトリーに重なっている可能性はかなり高い。

だから「レイハンル部族が現レイハンルからシヴァスあたりまで移動していた」という説は、けっこう信憑性が高いと思う。

* * *

つぎに、Reyhanli Confedelation というのはどういう「連合」だったのか? という疑問がわく。

困ったときのナントカ頼み……で、すぐ安直な方向に流れて英語版ウィキペディアを見た。
(ウィキペディアは常時書きかえられる可能性があり、間違った情報が載っているケースもあるので
一般的にはあくまで便宜的な情報ソースとして考えたい)

それによると
「16世紀ごろからチュルク系民族、特にRey(現イラン・テヘラン州)からトルコ系亡命者たちが住みはじめ、
19世紀にはコーカサスキプロスからの亡命者たちが住むようになった」ということが書かれている。
(2014年10月25日現在確認)

「コーカサスからの移民」というのは「Hull 本」にも書かれているが、
「キプロス」って島だよね? なんで??? ……という疑問がわく。

そこで思い出したのが、先ほどの松原正毅著『遊牧の世界』の記述。
少し長くなるが引用する。

「定住化法」
遊牧民の存在は、中央政府にとってつねに統制をみだす震源地であった。
遊牧民の生活領域の大半は、徴税・賦役・兵役などをめぐって国家権力の牙がとどく範囲外にあり、
さまざまな摩擦・反逆の源となっている、という印象が統治者側にはつよくあったようだ。
トルコ語で「山へあがる」という成句は、そうした印象をうらがきするものかもしれない。
「山へあがる」ということは、「山賊になる、叛逆者になる」という意味で、
背後には山岳地を縦横にかける遊牧民の世界との接触が暗示されている。

ユルックの定住化については、オスマン・トルコ朝の時代からさまざまな方策がとられてきた。
あるときは強権をもってのぞみ、あるときは懐柔につとめた。
数多くの定住化法が発令されたし、土地の供与とひきかえに定住化が奨励された。
オスマン・トルコ朝まもない14世紀には、キプロス島へ強制移住されたユルックの一集団の大部分が脱出をはかり、
アナトリアにまいもどる事件さえ起こっている。
(『遊牧の世界(下)』PP.174-175)


ここからは、かつてキプロス島がある種の「島流し」的存在であったことが読みとれる。
これは14世紀の話なので、レイハンルとは無関係の可能性が高いが、
19世紀においても、政府が手を焼いてキプロスに強制移住させた遊牧民グループが、
上記と同じように脱出を図ってレイハンリに逃れていった、というのはあながち否定できないだろう。

2014_1019_122437-PA192741.JPG
"NOMADS IN ANATOLIA" P.294 

黄色で囲ったのがキプロス島、赤丸がレイハンル。
キプロスを脱出してレイハンルに逃れるというのは、それなりに現実的だと思う。

* * *

ウィキペディアの説明をどう解釈するかも、かなり注意が必要だと思うが、
19世紀に存在した「レイハンル部族」が、イラン・コーカサス・トルコ他地域などから逃れてきた混成グループであった、
という想像することぐらいは許されると思う。

また、上の地図からは1915年当時に大交易都市アレッポがまだオスマントルコ領であったということがわかる。

いわゆる「レイハンル・キリム」の高品質は、アレッポと深い関係があるのではないか?
と、個人的には想像している。

残念ながらそれを裏付ける資料がないため、次回は「想像のハナシ」でしかないのだが、
しょー懲りもなく、「レイハンル・キリムの謎」をつづけたいと思う。

よい週末をお過ごしください!


 
2014.10.20 Monday

レイハンル・キリムの謎 その5


Hull 本、つまり "KILIM  -The Complete Guide- " がディーラー用語に沿った一般的な視点から書かれているのに対し、
"FLATWEAVES OF TURKEY" という本は、本来は部族の織物であったキリムの「起源」を
できるだけ明らかにしようと追及する視点から書かれている。

ただ何度も言うようだが、遊牧民関連の記録や文献が非常に乏しいため、
本の記述もキリムの「起源」についてはその輪郭を描くにとどまっているのはやむを得ないところだろう。

それでも私が持っている本の中では、レイハンルキリムについて一番くわしい記述があるので、
この本の98ページの内容を紹介したい。

* * *

アダナと称されるキリムは、アダナそれ自体ではなく、そこから北に広がるタウロス山脈周辺で織られたものと思われ、
そこにはかつて数多くの遊牧民グループがいた。
(中略)
この地域(アダナ周辺)から出てくるキリムには、このほか、アレッポとかレイハンルなどと多様な呼ばれ方をするものもある。
アレッポはトルコとの国境沿いにあるシリアの都市でかつてはオスマン帝国の重要な交易拠点であり、バザールで有名である。
アレッポの北にはトルコ領内の町ガジアンテップがあり、(トルコ)南東部からでてくる織物の名称として使われることもある。

レイハンルという用語は、キリムに使われる際、混乱を招くケースがある。
レイハンルはトルコ領内にある小さな町で、ほとんどシリアとの境にある。
これはレイハンル部族の名前から由来したもので、
部族の
グループのうちのいくつかは、かつてシバスまでに及ぶ範囲まで、北への季節移動を繰り返していた。
(やがて)レイハンル部族は、分裂し、定住していったが、
彼らの織物は、主にふたつのグループに分類される。
シバス周辺から出る、四角いフォーマットのパネルデザインで、たいてい大きなものと、
ガジアンテップからアレッポにかけた地域から出る(トルコ)南部特有の配色のもの、
である。

これらの地域から出てくるキリムは、どういう名称をつけられているにせよ、
素材・織り・とりわけ色において、一定の品質を保っている。
他の地域では見られない色相のスペクトルを持っている。
(トルコの)他の地域のほとんどに見られる濃い茜の代わりに、ワインレッドやコチニールが使われ、
青は、濃紺から水色までの濃淡が使い分けられ、透明感がある。
めったに見られないオリーブ・グリーンも使われる。


総体的には、(原色よりも)より間色系の色が使われ、かなりのスペースにコットンが使われることが多いため、
濃い赤と青がメインで構成される
他のトルコ系部族の織物よりも、軽やかで光り輝くような印象を受ける。

この地域から出てくるピースの中には、コットンとウールを撚り合わせた糸が使われているものがある。
ウールは時間が経つとアイボリー色に変わる傾向があるため、白い部分には心地よい色ムラが生じてくる。


* * *

ちなみにこの記述に出てくる「アレッポ」と「ガジアンテップ」について、
日本で「レイハンル」はキリム好きには有名なのに、なぜかこの二つの産地の名前を聞くことはほとんどないように思える。

こんな感じのキリムがこれらの産地のものとされている。

Aleppo book.JPG

2014_0924_142717-P9242489.JPG

Aleppo.JPG

ここまでは Hull 本より。

Gaziantep Aleppo.JPG

Gaziantep Aleppo2.JPG

Gaziantep Aleppo3.JPG

これらは "FLATWEAVES OF TURKEY" よりの引用だが、
この本ではふたつの産地を区別せず、「二つの町をむすぶ周辺のキリム」として紹介している。

美しい配色や装飾性の強いデザイン、という意味ではいわゆる「レイハンル・キリム」と共通性があるようだ。



私のところにある「ガジアンテップーアレッポ」と思われるキリム。
天然染料の美しさが特徴的だが、
いわゆる「レイハンル・キリム」とされるものよりも、織地が厚い。
やはりレイハンルとされるキリムは、織地が薄いものが多いように思う。

* * *

次回は地図を見ながら、レイハンル部族について考えたい。
(つづく)
 
2014.10.11 Saturday

レイハンル・キリムの謎 その4


前回取りあげたボーマー氏の "NOMADS IN ANATOLIA" に掲載されている「レイハンル」は、
前回の大きなキリムと、この中くらいのキリム(1.29×1.10m)の2枚だけです。

2014_1011_124834-PA112728.JPG

これはハタイではなくアダナ周辺のものとされ、「レイハンル部族連合」の成員によるものではないか、という説明。

この本にはこの2枚以外にも、ディーラーによっては「レイハンル・キリム」と言いそうな
「深く鮮やかな色彩で装飾性の強いキリム」が何枚も掲載されているのですが、
ボーマー氏はそれらを「アナトリア南東部」のキリムとのみ表記しています。

「レイハンル連合のキリム」と「アナトリア南東部のキリム」を分けた判断基準について、
また「レイハンル連合」についての更なる説明が知りたかったのですが、この本にはこれ以上の記載がありませんでした。

* * *


2014_1011_125049-PA112733.JPG

もう一冊、1996年に下関市立美術館で開催された「トルコの染織・キリム展」のカタログにも
「レイハンル」とされるキリムが載っています。


2014_1011_125145-PA112734.JPG
19世紀後期 ハタイ 234×141cm

うーん、たしかにボーダーの蔓草模様やフィールドのランニング・ドッグ、愛嬌のあるお花などデザイン的に
巷で「レイハンル」とされているキリムとの共通点が多いですね。

(これは「素人のたわごと」と読み流してほしいのですが、
配色は「アナトリア南東部」に多く見られる透明感のある色が少なく、もっと北側のような印象を受けます)

* * *

同じカタログに載っているアダナのキリム


2014_1011_125208-PA112735.JPG

これって、デザインが前回記事の "ANATOLIAN KILIMS" Plate040 に似ていません?

2014_0924_141920-P9242476.JPG

前回も書きましたが、"ANATOLIAN KILIMS" のレイハンルは、すべてハタイ産とされています。

もう2枚、下関市立美術館のカタログのアダナキリム

2014_1011_125232-PA112736.JPG2014_1011_125243-PA112737.JPG

この2枚と "ANATOLIAN KILIMS" Plate041 も、デザインがどことなく似ているような……

2014_0924_141947-P9242477.JPG

うーん、産地特定って本当に難しいですね〜

* * *

ここでまた前回の記事で取りあげた "FLATWEAVES OF TURKEY" に戻ります。

この本の著者である AREND BANDSMA 氏と ROBIN BRANDT 氏は、それぞれオランダとニュージーランド生まれ、
専門はそれぞれ数学&ドイツ語、植物学&生物学で、この本を上梓される前には昆虫の本を出されており、
国連職員や学校教師としてタンザニアやフィジーで数年を過ごされたりしたという豊富な経験の持ち主。

(お生まれはそれぞれ1921年と1937年)
それが何でかトルコでキリムにハマっちゃって〜♪ おまけに本まで出しちゃって〜♪ という方々です。

さて本題に戻りまして、この本の Introduction にとても大切なことが書かれています。


強制的であろうと自主的であろうと、数世紀にわたるひとびとの移動は、移住や定住といった形で
本来の部族が分割される結果をもたらした。
このことにより、織物の出所がどこであるか、確信を持って結論を下すことが難しくなった。

キリムにつけられた多くの呼び名は、ディーラー用語であり、
それらが実際に織られた場所や織った人びととは、ほとんど関係がないケースもあるのである。

一例をあげると、

レイハンル・ノマッドは、アナトリア中央東部にあるシバスの南の平原で、かつて広範囲にわたる遊牧生活をおこなっていたが、
一方、レイハンルという町は、シリア国境に近い(トルコ)南部に位置している。
したがって、レイハンルとされるキリムは、デザイン・色・織り技術が
時によって、いわゆる
アレッポ・キリムに近い、南部に典型的なものもあれば、
時によって、
マラティアやシバスに近いものもあるのである。

* * *

キリムや絨毯の研究は、信頼される文献として残されている資料が非常に少ないため、
この考えが正しいかどうかを証明するのは難しく、あくまで「一説」ではあるものの、
この間「レイハンル」とされるキリムをめぐって私が抱いてきた疑問を解くカギがあるような気がします。

遊牧民としてのレイハンルと、レイハンルと呼ばれる町。
それが混同して使われているのでは……という説は、かなりの説得力があるように思います。
でも、両者はまったく関係がないのでしょうか?
関係があるとすればどういう関係があるのか?

大きなヒントを与えられながらも、ますます謎は深まります。
(つづく)
 
2014.10.04 Saturday

レイハンル・キリムの謎 その3

つぎに、トルコ文化省発行"ANATOLIAN KILIMS" に「レイハンル」として載っているキリムを見てみましょう。

2014_0924_141854-P9242475.JPG
Plate 039  (93×215cm) 
これは「コレクターズクラブ本」掲載のキリムと似ている

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Plate 040  (160×300cm)

2014_0924_141947-P9242477.JPG
Plate 041 (170×310cm)

2014_0924_142011-P9242478.JPG
Plate 042  (150×330cm)

2014_0924_142057-P9242479.JPG
Plate 141 (97×142cm)
この本で唯一小さめのレイハンル

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Plate 142  (175×329cm)
余談だが、このキリムが某国にあることをわたしは知っている……kyu

* * *

……てな感じですが、みなさんどうですか? 
「なるほど、レイハンルってこういうキリムなのね〜」って、納得されました?

わたしはものわかりが悪いので、「正直言って、ようわからん〜」……なのですよ。
たしかに「配色がキレイ!」という共通点はあるのですが、
デザイン的にはこの5枚すべてが一枚一枚違っています。

ちなみにこれらはすべて、「レイハンル」という町がある「ハタイ」県のものとされていて、
一部ディーラーが使う用語「アダナ・レイハンル」など、他の産地とされるレイハンルはありません。

で、デザインですが、トルコの他の産地、たとえばマラティアとかフェティエとかコンヤなどは
慣れてくるとデザインを見ただけで「これはマラティア」「これはフェティエ」云々と、産地が推定しやすいものが多いのですが、
こと上記レイハンルにかんしては、デザインがそれぞれ違うので、
多少キリムを知っているくらいでは、デザインからは判別できないんじゃないんでしょうか?
もちろん私も判別できない一人です、ハイ。ゆう★

Plate 039 と Plate141 は、「Hull本」や「コレクターズクラブ本」に似たデザインがあるので
「たぶんこれはレイハンル」だとわかるのですが……

だた、やはり染色の華やかさ・装飾性の強いデザインはレイハンルキリムの大きな特徴といえるでしょう。

* * *

さて、「レイハンル・キリムの謎 その1」で
「産地としてのレイハンル」ではなく、「部族としてのレイハンル」を記述した本があると書いたのですが、その話を。

2014_0924_144212-P9242497.JPG
この2冊はどちらも有名な本なので、お持ちの方も多いでしょう。

2014_0924_144233-P9242498.JPG

写真左側の本"NOMADS IN ANATOLIA" より、超弩級のレイハンル!
赤線を引いた部分に、「レイハンル連合」と書いてあります。

2014_0924_145037-P9242504.JPG

写真右側の本 "FLATWEAVES of TURKEY" 掲載のレイハンル・キリム。

2014_0924_145429-P9242505.JPG

この説明文には、"a group of the Reyhanli tribe" という言葉が使われています。

「部族としてのレイハンル」に言及しているこの2冊の本には、
「え? レイハンルって商用目的に織られたキリムの産地じゃなかったの?」と驚かされました。

ボーマー博士の本で使われている "confederation" というのは、ハムセ連合とか、シャーセバン連合とか、
いくつかの異なるトライバルグループが、なんらかの目的を持って同盟を組むものです。

ハムセ連合は、1860年頃カジャール朝に反抗的だったカシュガイ族に対抗させるため政治的に組織された連合体といわれ、
ペルシア系・トルコ系・アラブ系の複数のエスニック集団によって形成されていました。
またシャーセバン連合も、当時のサファビー朝がオスマントルコに対する防波堤としての役割を期待して形成されたといわれています。

"the Reyhanli Confederation" についてもっと知りたくて、いろいろ調べてみましたがネットでも全然ヒットしません。
いつごろ形成されたのか? 連合の目的はなにか? 
高品質のキリムとはどういう関係があるのか?

……
うーん、謎は深まるばかりです。

(つづく)


 
2014.09.25 Thursday

レイハンル・キリムの謎 その2


前回とりあげた「Hull 本」の「レイハンル特有のデザイン」の説明について。
便宜的に「デザインAタイプ」と「デザインBタイプ」と呼ぶとすると(前回の記事を参照)、
「Aタイプ」はこの本に写真が載っている。

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おそらくこれが正真正銘のレイハンル・キリムのデザインだと思う。

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残念ながらモノクロだが、写真を拡大するとこのようなトーテミックなモティーフが使われている。



これは私のコレクションの小さなレイハンル。
非常に細かい織りで、深く透明感のある染色と、艶のある細く撚られた糸が使われている。

実用品としてハードに使うにしては繊細すぎるので、「売るために織られたのではないか」という意見もわかるが、
このトーテミックなデザインがあまりにも土着的すぎて、「商品」ぽくないような気もするのだ。

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これは2011年ストックホルムでの国際じゅうたん会議(ICOC)でお土産にもらった本から。
Wilhelmina von Hallwyl 女史(19世紀末の人)のコレクション。
大きさは、なんと約461cm×93.5cm!

下部をみると、六角形のトーテミック・モチーフは途中でちょん切れ、
4重ボーダーのうち1つのボーダーだけがなんとか踏みとどまっている。

残る3重のボーダーは、使用によって欠損したという可能性が否定できないとはいえ、
経糸の長さが足りなくなり、織り手が「これで終わりにしちゃえ!」としたようにも思える。

もしこれが「商品」として織られたならばそんな乱暴な処理はありえないが、トライバル・ラグにはよくあることだ。
しかしこのキリムには、通常の「遊牧民キリム」にはありえない14色という豊富な色が贅沢に使われている。
深く透明感のあるすばらしい染色が、写真からも想像できる。

* * *

またこのトーテミックなモチーフは、以前取りあげた「アドゥヤマン」のプレイヤーキリムのモチーフによく似ている。

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これはトルコ文化省発行の "Anatolian Kilims" より。
このワイルドな形状からも、遊牧民が自分たちのために織ったキリムと思われるが、
このトーテミックなモチーフが、ある種のトライバル・グループに共通して使われたという可能性はないのだろうか?

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さて、これは「Hull本」に載っている「デザインAタイプ」のもう一つの写真である。
トーテミックなモチーフもかなり大人しく上品になり、これなら「商品」と言われても違和感がない。

* * *

つぎに「デザインBタイプ」と思われる写真は「Hull 本」には載っていないので、
「このことかな?」と思われる写真を「コレクターズクラブ本」から引っぱってきた。

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レイハンル・キリムの「コンパートメント・タイプ」デザインというのは、たぶんコレ?

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赤で囲ったモチーフが入っていると「レイハンル」とされることが多いみたいだ。

三つのうち下の「波型」デザインは「ランニング・ドック」と呼ばれる有名なモチーフで
他の地域や部族の絨毯にもよく使われるけれど、
「S字」を「ランニングドック」で挟み込むのはレイハンル・キリムに多いようだ。

ちなみにこのキリムもかなり大らかな印象で、あまり「商品」らしくない。(^_^;)

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これは数十年前にシバスで織られたというキリム。
デザイン的には上のレイハンルとよく似ているが、カラーパレットが違う。

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これは「コレクターズクラブ本」掲載のシルクのキリム。19世紀後半だからアンティーク。
この本では、「デザインがアレッポのものと似ている」とされている。

(「レイハンル・キリム」と「アレッポ」や「ガジアンテップ」のキリムは使われる色も似ていて区別が難しく、
欧米ではあえて産地を明言せずに「トルコ東南部」と表現することも多い。この件はまた後日……)

このキリムの産地については書かれていないが、カイセリでもこのデザインタイプのキリムが織られているという。

* * *

このように、とてもよく似たデザインが別の産地でも織られていたことから、
キリムの産地を推定する場合、デザインのみに頼るのではなく、
カラーパレット・使われているウール(糸)やコットンの有無・織りの細かさなど総合的に判断する必要があると思う。

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次回につづく……
 
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