ARCHIVE  ENTRY  COMMENT  TRACKBACK  CATEGORY  RECOMMEND  LINK  PROFILE  OTHERS
<< September 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
2017.04.17 Monday

北インド古典音楽@源心庵

 

きのうは天気も良く初夏のような陽気。

絨毯好きのつどい2016」に来てくださった寺原太郎さんのコンサートに行ってきた。

 

IMG_0162.jpg

 

「絨毯好きのつどい」以来、寺原さんが主催している「世界音楽紀行」に通うようになった。

 

寺田亮平さんのトゥバ音楽を皮切りに、スウェーデン音楽、チベット音楽、アイリッシュ音楽と聴いてきたが

なかなか聴けない世界の音楽を生で聴けるチャンスだし、

毎回行くたびに新しい収穫があって、楽しみにしている。

 

この「世界音楽紀行」とは別に、「数寄の庵で聴く北インド古典音楽」に行ってきた。

 

IMG_0161.JPG

 

左の建物が、江戸川区の行船公園内にある数奇屋造りの日本建築「源心庵」。

月見台が大きく池へ張り出していて、水がすぐそばに感じられる。

池には鯉やマガモなど水鳥がたくさん。

建物から池をへだてた対岸には、葉桜となりかけた桜が見えた。

 

IMG_0165.JPG

 

すみません、最初はブログ記事にするつもりじゃなかったので、

コンサート終了後の日暮れの写真で見栄えがしませんが、よく手入れされた素敵なお庭もありました。

 

IMG_0163.jpg

 

今回のフライヤー、これまた持ち回っていたので折り目クチャクチャ汗

 

IMG_0164.jpg

 

当日いただいた資料によれば、北インド古典音楽は

旋律を奏でる「主奏者」、リズムを奏でる「伴奏者」、通奏低音を奏でる「タンブーラー奏者」で構成されるという。

 

今回は二部構成で、前半は寺原さん(バーンスリー)、後半は H. Amit Roy 氏(シタール)がそれぞれの主奏者で、

どちらも伴奏者はタブラの池田絢子さん、タンブーラー奏者は寺原百合子さんだった。

 

北インド古典音楽をきちんと聴くのはこれが初めてだったけれど、

やはりインドという国の奥行き、深さのようなものを体感した。

 

まず一曲の長さ! 前半は50分超、後半も1時間超!

一番好きなバッハのゴールドベルク変奏曲が、演奏者にもよるけれど大体1時間なので、それに匹敵するわけだ。

しかも即興ですよ、あーた!

 

寺原さんいわく「まずその日演奏するラーガ(彩り)を決めるんですが、同じラーガでも

その日の気分によって30分で終わったり、1時間以上にもなったりする」そうな。

 

最初はチューニングから始まる。

主奏者が自分の基本となる音を決めた上で、タンブーラーとタブラもそれに合わせる。

あるインド音楽の演奏者はチューニングについて「神様の座る椅子を整える」と表現しました。

正しい音の椅子にのみ、神様が座ってくれるのです。

 

うん、この言葉、演奏を聴いた後ではすごくわかるー。

インド音楽って神様抜きでは語れないのではないだろうか。

 

* * *

 

さて、寺原太郎さん。

「春の曲にしたいんですが、インドの春って日本の春とかなり違うんですよね。

激しい感じのものが多いんですが、今回は比較的日本に近い感じのラーガでいきます。

桜のようにふんわりと美しく、けれどどこかにちょっと狂気をはらむような」

(スミマセン、うろ覚えなので発言が正確でないと思いますが)

ということで始まった。

 

「気楽に聴いてくださいね。後ろでお茶飲んでも結構ですし、池を眺めに立ってもいいですよ」

えっ、そうなのー。

 

それにしてもバーンスリーという横笛は懐が深い音を出す。

寺原さんのバーンスリーを聴いてからは、手持ちのCDのフルート協奏曲が物足りなく思えるようになったくらいだ。

いわゆる「室内楽」として発達したフルートと、バーンスリーは成立ちからして違うのかもしれない。

 

演奏を聴いたシロートの感想。

「比較的日本に近い」の言葉どおり、旋律もどこか日本的な気がしたし、

満開の桜をイメージして演奏されていたのかもしれない。

最初はおもむろに主奏者の演奏、

やがてタブラが入ってきてスリリングな掛け合いへと進行する。

 

あー、桜だ〜満開の桜〜、桜吹雪〜!

なんか身体がむずむずと動きはじめる。

前の席では首をくねらしてリズムを取っている人もいる。

人目を気にすることがなかったら月見台に出て踊っちゃってたかも。

 

「そうだ、こういうときは田中泯!

田中泯を呼んできて踊ってもらおう!」

と目を閉じて音楽を聴きながら勝手に妄想に耽った。

 

最初は「40分くらい」とのことでスタートしたが、興が乗って50分超〜!

すごいな太郎さん、熱演でした〜!

撥弦楽器や打楽器でも50分の演奏は体力勝負だと思うのに、笛ですよ笛!

声楽の人だって、あんなにぶっつづけに歌ったらもたないんじゃないかなー?

アメージング呼吸法!

今度、肺活量どれくらいあるかきいてみよう。

 

* * *

 

さて、休憩を挟んで H. Amit Roy 氏のシタール。

シタールも、ビートルズが採り入れたことぐらいしか知らないお寒い状況のワタシ。

 

前半のノリノリ気分を残しながら後半の演奏が始まった。

 

‥‥‥‥

 

前半の演奏は、"Music in the air〜!" という感じで

どちらかというと、音楽が外に向かって放たれていく印象だったのだが、

後半は非常に思索的で、個人の内面に向かって深く深く「問い」を発しつづけるような印象を持った。

 

前半は日本人の感性に近い音楽のように思えたけれど、

後半は、厳しい自然環境に生まれ、悠久の昔から積み上げられてきた思索の国の音楽だなと思った。

 

まあ、「何も知らない素人のたわごと」ということで聞き逃して欲しいのだけれど

なんだか、大きな悲しみをたたえている音楽という気がしたのね。

 

そうすると、いまの世界のこととか考えちゃって。

いまだって大きな自然災害が起これば、人間の力っていうのは本当に小さくて何もできないのに、

人間がつくりだす災いが猖獗を極めつつあるような世界のこと。

 

そんな世界に対して自問自答とともに、絶対者=神にたいして問いかけをつづけているような音楽。

アミット・ロイ氏の音楽からそんなことを感じた。

 

だから後半は首を振ることもなく、かしこまって聴いておりました。ぐすん

 

まあそれでも、アンコールに応えて演奏した曲は

「それでも世界は続く」という感じがして、ホッとした。

 

IMG_0160.JPG

 

きのうは興奮してなかなか寝つけなかった。

その混乱を引きずったまま記事を書いたので、支離滅裂だけれど、

それも私の1ページ。

 

 

心に響く音楽を聴けて、よかった。

 

 

 

 

 

2017.03.26 Sunday

パキスタン映画「娘よ」&「裁判官の娘」と呼ばれる絨毯

 

きのうの朝、NHK FM を聴いていたらピーター・バラカンさんが映画の紹介をしていた。

「ストーリーはわりと単純なんですけど、なんといっても風景がすばらしいし、俳優の演技や音楽もいい。お薦めです」

 

アフィア・ナサニエル監督「娘よ」というパキスタン映画。

こんなにグローバル化が進んでいるのに、パキスタン映画が日本で公開されるのは初めてという。驚き!

 

P1013364.jpg

 

「遥かなるカラコルム山脈の麓。

敵対する部族長との政略結婚から10歳の娘を守るため、

母と娘の命がけの旅が始まった。

フンザの狭い路地、黄金色に輝く杏やポプラの木々の中で繰り広げられるカーチェイス。

パキスタン北部の自然を背景に、伝統的な社会に生きる人々の葛藤を描き、

多くの観客の共感を集めた作品」

(「エキプ・ド・シネマの会・会報」より)

 

神保町の岩波ホールで3月25日〜4月28日まで。

 

P1013365.jpg

 

この映画の原題は "Dukhtar" 。

「娘」という意味で邦題とおなじだが、

部族絨毯が大好きならすぐ思い浮かぶのが

"Dokhtor-e-Ghazi" (裁判官の娘)と呼ばれるプレイヤーラグ。

 

* * *

 

以下、Tribeさんのサイトより引用させていただきます。

 

 

お祈り用絨毯にこめられた思い

 

バルーチ族には絨毯にまつわる美しい物語が伝えられています。

イランとアフガニスタンの国境付近に、その地域で評判の美しい娘が住んでいました。
彼女はティムーリ族というバルーチの中の一支族の高名な裁判官の娘でした。
ある時他の支族であるバールリ族のシャーマン(祈祷師)の血を引く若者が、彼女と恋に落ちて求婚しますが、裁判官の父親は二人の間を認めず、結婚はおろか彼を村から追放し、娘は秘密の場所に監禁されてしまいます。彼女を愛していた彼はスーフィー*のあらゆる技を駆使して彼女との結婚の許しを得ようと試みます。
彼に会えない娘はひとり篭って絨毯を織り続けていましたが、その時に織られた絨毯の文様は今までに見たことのない美しい紋様でした。そしてその文様は見る者の気持ちを幸せにする不思議なモチーフでした。彼女の織った絨毯は町でも大評判になり、二人の関係に同情する者が増えて行きました。頑固な父親も終には折れて二人の縁談を認めました。

彼への思いが彼女に美しい絨毯を織らせたのでしょうか。
その後二人は幸せに暮らしたそうですが、彼女はその後23枚の絨毯を織り、二人の娘達が母親に習って織ったものを含めると70枚ほどの絨毯がドクフタレ・カジイ(裁判官の娘)と呼ばれるようになりました。

(引用ここまで)

* * *

 

P1013366.JPG

 

いまは亡き Michael Craycraft さんの本にも「裁判官の娘」と呼ばれる絨毯が4枚掲載されています。

 

P1013367.jpg

19世紀中頃 Nishapur 産

 

P1013368.jpg

19世紀末 Turbot-i-Jam 産

 

P1013369.jpg

20世紀はじめ アフガニスタン・イラン国境付近の産

 

P1013370.jpg

19世紀中頃 Farah 産

 

(地名はいずれもイラン北東部からアフガニスタン北西部にかけて)

 

わたしのところにも「裁判官の娘」の祈祷用絨毯が一枚あります。

 

2012年4月に桜をのせて遊んだ記事からもう一度。

 

20140402_1048596.jpg

 

ご覧のとおり、クタクタです。

 

20140402_1048593.jpg

 

下のボーダー部分もタテ糸が露出していますが、糸の撚りがいまだに残っているのに感動します。

 

20140402_1048597.jpg

 

フィールドの文様は、娘の願いをのせて飛ぶ鳥のようにも見えます。

 

20140402_1048591.jpg

 

気品ある絨毯。

 

20140402_1048594.jpg

 

全体像はこんな感じ。

 

* * *

 

映画の話に戻りますと「パキスタン」「部族」「結婚」など、部族絨毯好きなら見逃せないテーマ満載!

 

東京の後、他の地域でも上映される予定ですので、興味のある方はチェック!「娘よ」公式サイト

 

わたしもはやく見にいきたいな〜〜!きらきら

 

2017.02.04 Saturday

「最強のふたり」

先週の土曜日「たばこと塩の博物館」に行く前に、シネ・スイッチ銀座でフランス映画「ショコラ」を観た。



思った以上に重い映画だったけれど、主役のオマール・シーとチャップリンの孫であるジェームス・ティエレの演技に唸った。

2月6日月曜日の夜9時からBSでオマール・シー主演の「最強のふたり」がある。

フランスの大富豪と移民のものがたり。
オススメなので、興味がある方は是非どうぞ。

2017.01.30 Monday

「西アジア遊牧民の染織ー塩袋と旅するじゅうたん」

早いもので一月も終わろうとしていますが、みなさんお変わりありませんか。


2008年「たばこと塩の博物館」で「西アジア遊牧民の染織ー塩袋・生活用袋物とキリムー」という展覧会がありましたが

行こう行こうと思っていながら、結局行けませんでした。


当時博物館は渋谷にあり、染織のなかでも特に「塩袋」など袋物を中心とした展示でしたが、

第二弾の今回は博物館が墨田区のスカイツリーのそばに移転し、

展示内容も数点の袋物のほかは絨毯が中心になっています。


IMG_0011.jpg


日本で部族絨毯を観ることができる博物館といえば、

東京国立博物館(トーハク)東洋館でときどき松島きよえコレクションなどの一部が展示されるくらいです。

ただ残念なのは、展示が地下で照明が暗く、ガラスケース越しの展示なので

染料、材質、織りのディテールなどが、よくわからないことです。


今回の「たばこと塩の博物館」では、一部ガラスケース越しのものもありますが、

ケースなしの至近距離から観ることができるものがほとんどで、

照明もよく、染料や材質(羊毛・ヤギ毛・コットン)の質感がつかめます。


IMG_0012.jpg


講演会、映画会、ワークショップも開催されるので、

興味のある方は検索してみてください。


IMG_0013.jpg


右が今回の図録、左が2008年の図録で、ミュージアムショップで購入できます。

日本でトライバルラグを観ることのできる機会は多くないので

興味を持たれた方はご覧くださいね。

それでは。

2016.07.19 Tuesday

「おっかけ」の日々、そしてデジタルデトックス

 

九州から東海までは梅雨明けしたようですが、関東はまだ。

もうすっかり隠居ばあさんの生活になじみ、ぐんぐん成長する稲を見ながら散歩をするのが日課ですが、

たまに東京に出て「おっかけ」みたいなことをやってます。

 

「おっかけ」の対象は絵画だったりアーティストだったり。

 

一番手に挙げられるのは松本竣介かな、やっぱり。

東京藝大美術館で開かれた「いま、被災地から」で「画家の像」(1941)が展示されているのを知ったのが展覧会の最終日前日。

6月26日の最終日に駆け込んで、戦争前夜に描かれた代表作の一枚を観ることができました。

 

IMG_3308.jpg

 

 

画面を覆う不安と焦燥のなかで、家族を守ろうとするかのように立つ自画像。

みていて胸がいっぱいになりました。

 

* * *

 

IMG_3288.JPG

 

次の「おっかけ」は、今年の木村伊兵衛賞受賞の写真家・新井卓さん。

4月の終わりに新宿コニカミノルタプラザで彼の写真を見たのがきっかけ。

 

「ダゲレオタイプ」という銀盤に像を結ばせる最初期の写真技術を使い、

「核」をテーマに写真を撮りつづけている。

第五福竜丸、ヒロシマ、ナガサキ、そして福島。

ところが彼の写真は、いわゆるジャーナリスティックだったり政治的だったり、といった枠をほとんど感じさせず、

どう言ったらいいのか、「実存の重み」また逆に「実存の軽み」を突きつけてくるような印象を受けた。

こんな写真ははじめてだ。

 

銀盤写真って、サイズが小さいうえに照明光を反射してものすごく見辛い。

どうかすると鏡のように自分の顔が写ったりしてギョッとする。

それでも金属独特の質感は、印画紙に現像された写真とは全然違って、

はらわたにズコンとめり込んでくるような存在感がある。

 

展覧会に行って自分が「いいなあ」と思う感覚というのは、

作品に「共感」し「いい作品だなあ」と気持ちを噛みしめることがほとんどだけれど、

新井さんの写真は「圧倒される」感じ。

欧米人がよく絨毯に対し"appreciate"(良さを味わう)という言葉を使うけれど、

新井さんの写真には、"overwhelmed"という言葉の方がふさわしい。

 

IMG_3307.JPG

 

「モニュメント」という写真集も良くできていて、これはこれで非常に価値のあるものだと思う。

ただ、ダゲレオタイプの実物の質感と紙に印刷されたものでは大きな違いがある。

ご本人もそれは承知で、写真集はむしろ別の媒体として自分の作品を広める契機にしたい、と考えておられるようだった。

 

印画紙は同じ写真が何枚もできるが、ダゲレオタイプは複製不可能。

なので、新井さんの展覧会というのはかなり限定されたものになるけれど、

なんといま、川崎市民ミュージアムで新井さんの写真が展示されています。

7月24日(日)までなので、興味がある方はぜひどうぞ!

 

* * *

 

三つ目は「間接的なおっかけ」。

きのう7月18日、東京国立近代美術館で奈良美智(よしとも)さんの講演会があった。

 

私は別に奈良さんのファンではないが、武蔵美時代に麻生三郎さんが彼の恩師であったこと、

「(麻生)先生にお願いして松本竣介や靉光など、すでに他界した仲間たちの人となりを語ってもらう時、

僕は子犬のような眼をして真剣に先生の話を聞いていた」と聞き、

また、奈良さんがけっこう硬派であることは以前からうすうす感じていた。

 

ついでに「見る目のなさ」をさらすようだが、私は正直、彼の作品のどこがいいのかわからなかった。

村上隆よりは好きかな〜、レベルだ。

本人の話を聞けば、彼の作品にも少しは近づけるかもしれない。

 

さて当日は14時からの講演会の整理券を130名限定で10時から配布する。

やっぱ世界的に有名だし、オシャレ系の女性たちにも人気なようだから、朝早くから並ばないとムリっぽい。

前日はあまり体の調子が良くなかったので、

もういいや〜、吉増剛造展も会期あと少しだし、展示だけ見りゃいいか〜、と講演会は諦めて10時直前に着いた。

 

そしたらなんと、「講演会整理券の列はこちらです〜」と係員が呼びかけている。

ウホッ! もしかしてまだ大丈夫?

と「諦め」をさっさと投げ捨てて長蛇の列の最後尾に並んだ。

 

案の定オシャレな女性や美大生っぽいアート系男女などが中心で、

このなかで家計を浮かすために「1000円カット」に甘んじているのは私くらいのもんだろう! とヘンな確信を持った。

 

でも先頭が見えへんがな!

この長〜い列に並んでて、本当に整理券がもらえるのか?

でもそれなら係員が「定員オーバーですので並んでもムリです!手」とか言ってくれるよね?

 

‥‥そんなことを思っているうちに開館になり、列が動きはじめた。

係員の表情がやや不安気味になり焦りの色を露わにするころ、整理券配布カウンターが目の前に来た。

ヤッター! 117番、滑り込みセーフ!

 

IMG_3309.JPG

 

でも2時までに4時間もあるわ、ということで神保町まで歩いて映画を観て帰ってきた。

ああ、なんたる効率の良さ〜♪

 

IMG_3297.JPG

 

13時半から整理券番号順に講演会会場へ。

なかに入ると、そこは皆さんわきまえていてスマホで写真などを撮る人はいない。

 

いよいよ奈良さんが登場して映像を見せながら話をしてくれた。

彼は1959年青森県弘前生まれ。わずかに弘前弁を残した訥々とした語り口。

 

内容は主に若い世代に向けての話だったように思う。

自分の作品はよく「かわいい」とか言われるんだけど、ちょっと違うと思っていること。

自分が描く「子どもの絵」に触発されて、似たような絵を描く人が増えているけれども

自分から見れば「なんだか浅いなあ」と思えること。

(誤解のないように。奈良さんは全然偉ぶったところがなく、むしろシャイな印象を受けた)

 

彼が小学校の5年くらいまでは、昔ながらの農村風景や日常生活が残っていた。

除雪車が無かった時代の「雪切り」、同級生と遊ぶ時も赤ちゃんをおんぶしていた子がたくさんいたこと、

米を入れる俵も自家製だったこと、農村の労働力として馬が身近にあったことなど。

祖父が樺太で暮らしていたし、ソ連抑留者の話も聞いた。北海道にもよく行った。

「自分の原風景としてこういうものがあるわけだから、今の若い人とは違うよね」

 

高校二年のとき「ねぷた」の大きな絵を描いて「奈良は絵が上手い」と評判になったことがきっかけで

美大に進学したけれど、入学したら自分より上手いやつはいっぱいいた。

適当に大学生活を送っていたが、仕送りをヨーロッパ旅行で使い込んでしまい、

それが親にバレないように、公立の美大に入り直して、そこからは仕送りなしでやっていくことにし、

(美大系)予備校のバイトをしたら、教えた生徒がどんどん合格してバイト代が上がった。

なによりも高校生が「先生」と呼んで慕ってくれたことがきっかけで

「だったら僕もきちんと絵をやんなきゃいけないな」と努力するようになった。

学生仲間と一枚の絵をめぐって夜中まで論じたり、絵に対して真剣に向き合うようになっていった。

 

「いろいろな偶然がきっかけで運命がひらけ、今の自分があるのかなあ」

 

質疑応答も面白かった。

 

印象深かったのは「絵を描くときはどこから描きはじめますか?」という質問に「そのときによって違います」。

会場が騒然とする。

下絵とか、全然描かないらしい。

 

「事前に計画をしっかり練ってする旅行もあるけど、

僕は地図なしに旅行してみる、移動しはじめて、そのなかから方向性を見つけていく」

 

彼のアトリエの棚の写真を見せてくれながら「これがある作品の元になったもの」。

‥‥日系人捕虜の写真集、好きなレコード、こけしやオモチャ等々、

はっきり言って出来上がった作品とそれらを結びつけるのは難しい。

でも奈良さんの内面からみれば、それらがいろいろな形で影響をあたえあいながら作品へ込められているのだ。

 

一枚の作品ができあがるまでに、上からどんどん塗っていって最初とはまるで違う絵になる。

たとえば、最初たくさんの円や四角が浮かんだ絵だったのがどんどん塗り替えられていって、

円や四角は消え、「一見シンプルな」女の子の像に収斂されていく過程などがスクリーンに映し出された。

 

ここで「一見シンプルな」と書いたのは、奈良さんの絵の実物を観れば

印刷物で知っていた「ああ、奈良美智の絵ね」という思い込みが吹っ飛ばされるからだ。

私はこの日はじめて彼の「ハームレス・キティ」という作品を観て、

「アニメのイラストみた〜い」「かわいい〜」先入観とは似て非なる、立派な芸術作品だと思った。

 

「どうすれば絵が上手くなれますか?」という質問には

「そう思う時点で止めといたほうが楽かもしれないよ」と一瞬ギョッとする答えもあった。

 

「自分が高校生のときに描いたねぷたの絵が上手かった、みたいな話をしたよね。

でも、今の自分がその絵をみれば、確かに上手いね、でもただそれだけだよね、って思うはず。

そのあと俺はいろいろ努力したんだよ。そのなかでいろんなことを学び、つかんだ。

絵が上手いかどうか、っていうことよりも、そこで自分が得たもののほうが、表現にとってははるかに大事だと思う」

 

「自分が見てきたもの、経験してきたもの、努力したもの、それらすべてが作品のなかに込められている。

パッと見て似たように見えても全然違うのは、不思議とそれらが作品に出てくるから。

なぜだがわからないんだけど、作品にはぜんぶ出てくるんだよね」

 

これは奈良さんが語られた内容のごく一部です。

内容がご本人の意図を外れて私が誤解していたら申し訳ないのですが、

とにかく奈良さんの話はとても魅力的なものでした。

 

そういうわけで、奈良さんの作品を見る目が少し変わってきたように思います。

 

帰宅してポストカードセットを眺めていて気づいたこと。

奈良さんは、もちろん麻生三郎や松本竣介などの作品から大きなものを受け取っていると思うけど、

フィリップ・ガストンの影響もかなり受けているんじゃないかって。

 

IMG_3311.JPG

 

ガストンは1913年カナダ生まれ。KKKやユダヤ人大量虐殺をテーマにした。

彼もまた私にとっては謎の画家。

初期のいわゆる「上手い」絵から転じて、深刻なテーマをマンガのように描き始める。

上の絵などは、画家本人が「断罪されるべき対象である」KKKのコートをまとい自画像を描いている。

 

IMG_3310.JPG

 

ガストンといえば、横から見た特徴的な目と膨れた頬。

右は奈良さんの作品「ガストン・ガール」。

 

 

上の女の子の作品はいかにもガストンだけれども、この犬の題名も「ガストン・ガール」。

ううむ、意図が測りかねる〜。

 

アートの森は奥深く、謎に満ちている。

 

* * *

 

さて、実はここからが言いたかったことなのですが、

しばらくの間ネットと距離を取ろうと思っています。

 

暇があるとスマホをのぞいていますが、目にもよくないし、

ここらでちょっとデジタルデトックスしたほうがいいと思うようになりました。

 

ですのでブログはあまり更新できなくなると思います。

たまに気が向けば書くかもしれません。

 

それではみなさん、体調に気をつけてお過ごしくださいね。Docomo123

 

 

 

 

 

2016.04.05 Tuesday

中国の写真家・莫毅さんのこと


絨毯とキリムをテーマにしているこのブログだが、最近はそのテーマから外れる記事が多くなり、
これからどうしていこうかなと考えている最中だった。

4月、新年度にあたって、絨毯の記事を書こうとしていたのだけれど、
もう一度、日記のような記事になる。
絨毯好きのみなさまには申し訳ありません。

昨年、自分なりに断捨離をやって、中国関係の資料をかなり処分した。
多少は残してあるが、もうそれは「思い出」に近いもので、自分と中国との関係は「過去のもの」という認識になっている。
ところが1日に莫さんからメールが届いた。

莫毅さんは私と同い年の中国の写真家。
1996年に放送されたNHKのドキュメンタリー番組「中国の素顔を撮る」を偶然見たのだったが、
紹介された7人の写真家のなかで、わたしはとりわけ莫さんの写真に強く惹かれた。
紹介していたのは、第一回木村伊兵衛賞を受賞された写真家の北井一夫さん。

いま思えば、あの頃のわたしには、まだ「蛮勇」があった。
たまたま写真関係の仕事をしている妹が写真家名簿を持っていたので、北井さんの連絡先を教えてもらい、
不躾にも北井さんにイキナリ電話をかけたのである。

「あの〜、NHKのドキュメンタリー見たんですけど、すごく良かったです。
それで〜、莫さんっていう人の写真がとても印象に残って〜、
あの、ちょっと中国語の勉強してるもんで、莫さんに手紙書きたいと思うんですけど〜」

あのときわたしは30代後半で、もう少し分別があっても良さそうなものだったが、
北井さんがとても気さくな方だったこともあり、その後、お宅にお邪魔して、
北井さんご自身の作品なども見せていただきながら、莫さんの住所を教えていただいたのだった。

「あなたの写真、テレビで、見ました。
とても、良かったです。
わたしは、感動しました。
まるで、中国の、ヴァン・ゴッホみたいです。
がんばってください」

‥‥とまあ、こういう幼稚な内容で、
いまはあるのかどうか知らないが、各国で通用するという「国際郵便切手」を同封して投函した。
当時はいまみたいにメールが一般化されていなかったし、
中国語ソフトもまだまだだったから、手書きで手紙を書き、切手を貼って、ポストに投函したのである。
なんだか、とても、なつかしい。

あんな幼稚な内容だったけれど、莫さんはとても喜んでくれた。
その後、何度か手紙のやり取りをして、
オリジナル・プリントを数点購入したりしていたが、
やがて莫さんに辛い時期がつづくようになり、連絡をする機会もなくなっていった。

そして2012年の夏、十年以上連絡がなかった莫さんから突然メールが来た。
東京ミッドタウンで開かれる「TOKYO PHOTO 2012」でスピーチをするから来ないか、という。

北井さんからは、莫さんがドイツなどで評価され、近年中国でも大きな賞を受賞したと聞いていた。
莫さんの才能は、北井さんがいち早く見出した。
1996年の番組で紹介された他の写真家はみんな中国でそれなりに有名な写真家だったが、莫さんだけが無名だった。
経済的にも、社会的にも、苦しいようだった。

北井さんは、番組のナレーションでこう言っていた。

「わたしは莫さんの写真を見て驚きました。
写真に、莫さんの感情が表現されているのです。
いま、莫さんは中国でも『無視された写真家』です。
時代が、莫さんに追いついていないのかもしれません」

IMG_2686.JPG

そして2012年、現代中国の写真家として名声を獲得した莫さんと会った。
メールで「久別重逢」とか書きながら、手紙だけのやり取りだったから、実際に会うのは初めてだった。

早めに会場に着いたわたしが、莫さんの姿をみとめて「Mo Yi!」と声をかけたら、
莫さんは不思議そうな顔をしている。

そうか、
わたしは莫さんをテレビで見ているから知っているけれど、
莫さんはわたしの顔を知らないのだった。
このチビデブのちんけなオバさんが、苦しいときの自分を励ましてくれた人のイメージと違っていたのだと思う。(笑)

しかし、いずれにしても、莫さんが逆境にめげずに写真家として成功した姿を見ることができて、
わたしはとても嬉しかった。
そして、莫さんの瞳が、とても澄んでいたこと、
認められてからも、変な風に変わっていないーーそんな風に思えて、安心した。

莫さんはスピーチで、自分のこれまでの仕事について語った。
そのなかで1989年の天安門事件後の作品「揺蕩的車廂」を取り上げ、”ある日本人”の感想を紹介した。

「人びとの表情は暗く、みな押し黙っている。
バスは揺れながら走りつづける。
このバスの行き先はわからないが、
乗客はだれも降りることができないのだ」

作品を通じて自分の思いが伝わっている手応えを感じたーー莫さんはそう思ったようだった。
一方、それを聞きながら、わたしは自分を深く恥じていた。

なんという思い上がり。
なんという軽薄さ。
あのとき、自分はなんにもわかっていないくせに、あんなことを言ったのだ。
バスの乗客の気持ちが、自分も、いま、ようやく、わかりはじめたよ、と。

IMG_2685.JPG

あれから、もう3年が経った。
日本というバスは、いったい、どこに向かって走っているのだろう。
しかし、乗客はだれも降りることができないのだ。

* * *

莫さんは、もう日本に着いたようだ。

中国号バスに乗っている莫さんと、
日本号バスに乗っているわたし。

9日は、莫さんに会いにゆく。

* * *

莫毅さんの展覧会はこちら
2016.03.08 Tuesday

展覧会をめぐり「断片」と「埃」を想う


これまで特にアートファンというわけでもなかったが、
「カマキン最後の展覧会」以来、どうやら絵をみることが好きになってきた。

あれから松本竣介の評伝のいくつかや宇佐美承『池袋モンパルナス』などを読んで、もう、ぞっこんである。
「水晶のような男だった」と親友の彫刻家の舟越保武が語っていたくらいだし、
私のなかでは「竣介サマ〜!」になっている。ゆう★

とはいっても、ここしばらくは大規模な回顧展もないだろうから、
松本竣介の作品なら一枚でも二枚でも、ということで、
東京国立近代美術館で「ニコライ堂」(1941)「Y市の橋」(1943)、絶筆の「建物」(1948)を、
そして国立新美術館での「はじまり、美の饗宴展 すばらしき大原美術館コレクション」で「都会」(1940)をみた。

絨毯でもなんでも、やっぱり実物を見なければだめだ。
松本竣介の絵肌は透明感にあふれ、ガラス質のようなマチエールと描線がハーモニーを奏でていて、このうえもなく美しい。

中野淳『青い絵の具の匂い』によれば、松本竣介は藤田嗣治の技法から多くを学んだようだ。
個人的な印象では、藤田は多分に他者の目を意識して描いた画家であり、
松本は自分の世界を築くために描いた画家だと思っていたので、両者の結びつきは意外だったが、
ちょうど近美に展示されていた藤田の堅牢で滑らかなマチエールをじっくり見てみると、ああなるほど、と思った。

藤田は1944年に美術雑誌に書いた「戦争画制作の要点」でこう述べている。

「先ずキャンパスに下塗りを三回も施している。主に茶褐色で充分乾燥させて、その期間も三ヶ月はかける。
何のためかと言えば、記録画の耐久性を考えて、永久に不変な強靭さを獲得したいからである。
数年を出でずして褐色したり消える様な戦争画では後世に残し得ないからである。
ーー色彩に於ても、変色しない色を選んでいる。特に油に於ては、最も良質の油を五六種は混用している。
絵具が画布に密着して、硬性に落剥しない様に、又は何度も何度も透明色を重ねて、色の美しさを失わない様にやっている。
画面のどの部分を切り取っても絵画的の作品は失わせたくない。
たとえ一枚の絵が空襲を受けた場合に、その五分の一が残っても、十分の一が残っても、
その絵の全体が窺われるようなマチエールの堅固さとか、色彩の良質さとかいうものを窺われる様に注意している」


この文章を読んで、わたしはショックを受けた。
さすがだなあ。
藤田が好きかと聞かれたら、"not very much" なわたしであるが、やはり偉大な画家なんだろう。

* * *

IMG_2502.JPG

‥‥そういうわけで、わたしはフラグメントが好きである。??? 汗

* * *

大原美術館は、日本における西洋美術コレクションの草分け的存在ということもあって、西洋近代絵画が有名だが、
今回あらためて見てみて、日本の近代美術もとても良いものを集めているなあと思った。

今回は、関根正二、小出楢重、熊谷守一、中村彝(つね)、佐伯祐三の作品がすごいなと思ったし、
河原温の若い頃の作品に喜び、アンフォルメルの堂本尚夫にドカーンとやられ、
そしてコンテンポラリーの作家としては三瀬夏之助「君主論」が好きなタイプだった。

‥‥
いやいや、本題に戻ると(?)
大原美術館展でもわたしの「断片への偏愛」は変わることなく、
エジプトのフスタートから出土した陶片が、15、6片ばかり、一つの台に並べられていて、
しばらくそれに見入っていたのである。
もともとは瓶や皿や壺だったそれらは、断片となってもなお、人を惹きつけてやまないものを持っていた。

焼きものもカケラになると、割れた部分から釉薬のかからないもとの土の色が見えるし、
その土の硬さや滑らかさなど、さまざまな情報がわかっておもしろい。

出土した場所はエジプトだが、なかには中国から輸入されたと思われる陶片もあるそうで、
二匹の魚が向かいあった「双魚紋」は、中国から将来されてエジプトで流行した、
なんていう説明を読むと、大昔の中国からエジプトにやってきて今は日本に居るのねえと、しみじみしたりする。

IMG_2505.JPG

* * *

さて、東京ステーションギャラリーでの「ジョルジョ・モランディー終わりなき変奏」展であるが、
これも個人的にはかなり好みの展覧会だった。

IMG_2501.JPG

時代としてはピカソやキリコが活躍していた頃の人。
イタリアのボローニャに19世紀末に生まれた。
当時のパリではさまざまな新しい芸術運動が産まれていたが、
彼が18歳の時に父親が急死し、パリ行きを諦めて美術教師となり、
ごくありふれた壜や水差しなどを描きつづけた。

東京ステーションギャラリーは4階と3階が展示場になっていて、
3階部分は古い東京駅の赤レンガを上手に使っているため、無機質な白い壁に展示するのとは違った雰囲気を醸し出す。

以前、東京都庭園美術館で見た有元利夫展も、旧有栖川宮邸の室内での展示が功を奏していたなあ。
美術の素人の怖いものなしということで言うなら、モランディには有元利夫と近いものを感じた。

有元は最初コンセプチュアルアートに関心を持っていたが、
やがて、それよりは手仕事(メチエ)の愉しみを大事にするようになったし、
60年代末から70年代の「新しいムーヴメント」の時代に、
むしろイタリアルネッサンスや日本の「古典」や「様式」に備わる美に惹かれ、
平穏で静かで安らぎを感じさせる絵を描いた。

IMG_2509.JPG

さて、わたしが今にわかに注目しているマチエールだが、
モランディは、藤田嗣治や松本竣介とはまったく違う「ぼそぼそした質感」だった。
どうやらモランディは土や鉱物の粉末からできた顔料を使っていたらしい。
なるほど土っぽいが、それはモランデイの描く対象にふさわしい素材だったようである。

今回は静物画、花(彼は「造花」を描いた!)と風景画が展示されていたが、仕事の中心は静物画だ。
彼はかつて友人が古楽器のリュートを描いてくれと依頼してきたとき、
リュートのような貴重で高価なものを描くのが嫌で、おもちゃのギターとトランペットを描いたという。

だから静物画でも、豪華な花束や光り輝く果物や立派な食器などではなく、
これ以上ないほどに質素でささやかな壜や壺にこだわった。

もうひとつ、それらの壜たちにつもる「埃」をモランディはそのままにしたという。
というか、家族がその埃を取り去ることを許さなかった。
とはいっても部屋はきちんと掃除がされていたというし、彼は生活面でもきちんとした人だったようである。

「この埃の色と感触のおかげで、背の高い壜や深皿、古い水差しやコーヒー・ポット、
古風な壺や細い箱のすべてが、あたかもひとつにまとまっているかのように見えるのだ。
この埃は、無頓着や無精の結果なのではなくて、忍耐の結果なのであり、まったき平和の証人なのである。
喧騒な世界のあらゆる刺激から慎ましく身を引いた彼の沈黙のなかで、これら日常の事物たちは、
みずからの静かなる生(スティル・ライフ=静物)を過ごす」
(岡田温司『ジョルジョ・モランディ 人と芸術』 1967 NYでのモランディ展のカタログより)


* * *

IMG_2506.JPG

なんだか記事の内容が支離滅裂だが、「断片」も「埃」も、物の「イメージ=像」をゆたかにしてくれると私は思う。
うまく言葉にできないが、物は人間が認識するから存在する。
その認識の方法が、各人それぞれであり、なにが美しくなにが醜いかもまた違ってくる。

だから擦り切れた古い絨毯を大切にしている変人がいても、
その人には(いえ、あたしのコトですけど)その人の想いがあるのだ。

ヘンテコで意味不明の記事になってしまいましたが、
これは春の陽気のせいというコトにしてください。・・・

IMG_2508.JPG
2016.01.24 Sunday

「カマキン最後の展覧会」5ー「文化」ってこういうものなのか

 「敗戦の年の十二月に、ぼくは、おむつが満艦飾のようにはためく引揚船に乗って、天津、塘沽から引揚げてきた。そこに、ぼくはなにを美術の領域にみたであろうか。
 敗戦によって長い断絶のなかにあったーようやく端緒につきはじめようとしていた日本の現代美術にとっても、また国際的な交流にとってもー現代美術は、一般的には、はじめ呆然として、荒涼たる焼野原に立っている状況を示していた。そして、戦争画という主題を政治的強制によって描いているうちに、近代美術の造形思考が断絶されたばかりでなく、造形思考そのもののデカダンス(頽廃)をもたらしたことが、前者よりも遥かに悲しむべき事実であったように、ぼくは思えた」
(土方定一『日本の近代美術』岩波文庫 P.236)

  土方定一は1951年のカマキン開館時に副館長、65年から館長をつとめ、同館の企画展示やコレクション形成は彼独自の視点が色濃く反映しているといわれている。彼の著作は、わかりやすい言葉で書かれているのもうれしいが、なにより彼の視点に共感するところが多かった。土方は「片山潜と美術館」というエッセイで、ヘーゲルの『美学講義』から次の文章を引用している。
 
 「たとえば、多くの美術館はもし人びとがそこに懸けてあるすべての絵に対して、その絵の属している土地、時代、流派、作家のことを知っていて入らないと、見ても何の得るところもない無意味な混乱としかみえない。
 だから、研究したり意味深い鑑賞をするために最も合目的的なのは歴史的な陳列(eine historiche Ayfstellung)である。歴史的に整理されその仕方が独特で測り知れぬ価値を持っているこのような蒐集をわれわれが見たければ、ほかならぬこの地に設立された王立博物館の美術館を訪ねればいい。ここでは技術的なものが進展する外的な歴史ばかりでなく、流派や対象を、またその表現や取り扱い方の区別にみられる内的な歴史の本質的な発展がはっきり認められる。このような生きた直観によってはじめて、伝統的な基礎的な型がどこから始まり、芸術がどうして生命をもち、表現と個性的な特徴がどこにあり、形態の動かない静かな姿からどうして解放されるかの表象、また劇的に動く所作、群体へどうして進むか、色彩のまったき美惑はどうして生れるか、またある時は同じ対象を独特に取り扱い、ある時は表現する内容の区別によって相互に分れている流派の違いがどこにあるかの表象、があたえられる。研究するにも、科学的に観察し叙述するにも、絵画の歴史的発展は非常に重要である」

(『土方定一著作集9ー美術館 都市と巨匠』平凡社 1977年 PP..229-230)

 これを読むと、ああそうか、土方さんはこの言葉のような美術館を日本につくりたかった、それがカマキンだったんだ、と思える。開放的で伸びやかな建物、こじんまりとした、しかし充実した内容の展示室、麻生三郎のいう「人間のいる絵」という言葉で表せるコレクション。日本の美術史の流れなどほとんど知らないわたしでも、来て良かった、また訪れたい、そして今回気になった画家のことをもっと知りたい、と思えるような美術館。



特別公開されていた「学芸員室」。トーチカ風天井がいい。
夜型の土方定一は夕方頃に出勤してきて、夜遅くまで学芸員と「作戦会議」をしたという。

「それにしても、いろんな人が美術館に顔を出した。まあ、土方さんとの人間的なかかわりもまじっていて、美術関係者だけでなしに、編集者はもとより旧知の詩人や文学者や研究者たちもいた。すでに述べたように「夜の宴」となることも稀ではなく、けっこう何かと熱い論議の華を咲かせていた。いまから思えば、六〇年代半ばというのは、戦後に一区切りをつける端境期だったのではないだろうか」と、土方亡き後に館長を継いだ酒井忠康は語っている。

   * * *

カマキンがオープンした1951年11月、日本はまだ敗戦冷めやらぬ占領下にあった。オキュパイド・ジャパンであったのである。 
国立近代美術館の開館はその翌年だから、日本でははじめて、世界ではパリ、ニューヨークに次いで3番目の近代美術館だ。
当時の神奈川県知事内山岩太郎は、戦争によって荒廃した社会を復興するには人々の集う場所と世界に通用する文化が必要だとして、いちはやく美術館の建設に踏み切ったという。それに加えて土方のような未来のビジョンを力強く示せる美術史家、鎌倉という歴史と文化の土地、川端康成や小林秀雄などの鎌倉文士の支援など、さまざまな方面の人びとの総合力によって、カマキンは誕生したのだ。

ふたたび坂倉準三設計の建物に話を戻すと、開館当時の学芸員が「まぶしくてまぶしくて、まっすぐに見ることができなかった」と言ったと言われるほど、真っ白で、モダンで、清潔な建物だった。

IMG_2225.JPG

これは復刻された岩波写真文庫『東京案内』。1952年当時の東京が写っている。上の右側は日本橋。まだ日本橋にも都電が走っていた。

IMG_2226.JPG

ミュージアムひしめく上野。現トーハク本館の「国立博物館」、「東京都美術館」のファサードがパルテノン宮殿みたいでなんだかエラそう。

敗戦で、東京もまだ大きな建物を再建するにはいたっていない頃だったから、カマキンの瀟洒な姿は本当にまぶしかっただろう。
アスベスト・ボード、大谷石、鉄骨という今から見れば安価な材料で、これだけ美しい建物を建てたのだ。鋼材だってすぐには手に入らず、当時の横須賀米軍基地から設計値に近い鋼材を持ってきて、構造再計算をして建てたという。

IMG_2046.jpg

すぐそばに水と緑が感じられ、のどかな鳥の声が響く。やさしい日差しがふりそそぎ、心地よい風が水面をわたってくる。

IMG_2098.jpg

館内の喫茶室ピナコテカ。壁画は田中岑「女の一生」(1957年)。
オープン当初は、もっともオシャレなデートスポットだったらしい。

IMG_2125.jpg

ここはなんなのかよく分からない。ファサードに向かって左にある working room 入口。「不思議の国」につづいているかも。



「カマキン最後の展覧会」は残すところあと一週間。

「日曜美術館」で、「東京の美術館はすでに評価を得たアーティストの展覧会が中心になるけれど、鎌倉というある種の衛星都市だからこそ、周縁の画家たち、まだ評価は確立していないけれど、これはと思えるアートの展示を打ち出すことができた」と言っていた。

遠いこともあったけれど、どうしてもっと早くここに来なかったのかと思う。もっとたくさんのワクワクする出会いがあったはずなのに。

でもこれが最初で最後の出会いとなっても、わたしはカマキンを忘れないだろう。
今回はとくに古賀春江、松本竣介、麻生三郎の作品が印象深かったけれど、これを機会にして川端康成と古賀春江とのかかわりを知り、松本・麻生関連の図録や本に親しむようになった。そして土方定一という「わたしの新しいヒーロー」も。

カマキンによって、相当くたびれていたわたしの脳ミソに小さな鍬が入れられ、活性化しはじめた。
ぷしゅー!
これはしぼむ音ではなくて、はじける音である。

ありがとう、カマキン!
未来に希望が持てない今日この頃、あなたとの出会いによって、困難な時代に生きた作家たちを知り、敗戦から、頽廃から立ち上がろうとした人びとの姿を垣間見ることができました。
「文化」というものは、「関係性」のなかから生まれる。古賀春江と川端康成、松本竣介と麻生三郎とその仲間、内山岩太郎、坂倉準三、土方定一と学芸員たち、それを支えた鎌倉という土地と人びと、文化人。
その生き生きとした関係の総合力としてうみだされた神奈川県立近代美術館。

これからは鎌倉分館と葉山の二館体制で運営されることになるそうですが、カマキン設立当初のスピリッツよ、永遠に。
WE LOVE YOU!



 
2016.01.16 Saturday

「カマキン最後の展覧会」4ー「文化」ってこういうものなのか


(前回のつづき)今回の記事はほとんど引用です。麻生三郎は文章もすばらしいので。

 麻生三郎『絵そして人、時』(中央公論美術出版 1994年)によると、「昭和十年代」は日本の近代絵画の形成期の重要な時期だったという。

「西欧の直訳的な絵画様式、単なるイズムの紹介では日本の現実はうけつけない、すまされないものがあった。大正期の画家とはちがう。主体のあるしっかりした明確な質ができつつある時代であったと思われる。そしてこの時期の画家たちは自律的に自主的に西欧の合理主義を自分のものとして、仕事をすすめていたにちがいない。時代のニヒリズムの風景のなかで、合理的な精神の志向は深い混沌のかたちに変った。これまでの考え方では表現できない、造形からはみでたものがあつく存在していた」(P.194)

そして麻生は「現実を正視する目のある絵、『人間のいる絵』が絵画である」と考えるにいたり、それを形にするべく制作に没頭していった。創作は孤独な作業だったかもしれないが、彼の周りには熱い交友関係が満ちあふれていた。そして深まる戦争への道も。

「昭和十年にわたしは初めて「自画像」「海」「手」などの作品を発表した。昭和十一年「馬と人」などを描いた。ニ・ニ六事件。昭和十二年に日華事変が起る。東京派に大作八点出品した。このころ井上長三郎のアトリエで靉光、寺田政明、柿手春三らと裸のデッサンを度々描いた。昭和十三年わたしは渡欧した。ドイツがポーランドに侵入、第二次世界大戦が起った。長谷川利行が死んだ。昭和十五年に詩人の小熊秀雄が死んだ。松本竣介は昭和十一年に『雑記帳』を発刊している。彼は『雑記帳』のなかで「生きている画家」と同じような時局の批判を書いていた。薗田猛は「太平洋画学校の中に同情者的な組織を作ろうという目論見から煽動しはじめたのであったが、グループの中にはその資質から卑俗な現実の中に耐えられない不平と反抗とを感ずる一般的な気分が横溢していた」とそのことの仲間のことを書きながら、彼は死んだ石田新一や山内為男の追悼誌を出した。その追悼誌を読むと薗田猛や松本竣介の周囲の人々の関係の人間的なそして深い交友の純正さがわかる。このような人間的な純度の高い交友はその後なかったことだろう」
(中略)
「われわれは戦争のなかにいて青年期をすごした。生死の切実な体験が鮮明であった。その体験はそのまま知らぬうちに絵画思考の底部にへばりついている。時間の焦燥が絵画にも言葉にもなって、絶えずわたしの頭脳を重くしていた。「やはり私は個を描きます。あすはどうなるかこのきわどい生活にいて空にむけて熟しきった弾をうちこまねばなりません‥‥」といいながらわたしは仕事をした。このような回想を書きだしたらきりがないが、この生活体験のなかにわたしはわれわれの前の画家たちとちがった、まったくちがった位置を自分で知るのだ」
(PP..195-196)

IMG_2210.JPG
鎌倉近代美術館「所蔵品による松本竣介・麻生三郎展」カタログより

「一九四三年のことであるが、自分の絵を自由に描き発表することが不可能になった。空気は希薄になった。黒い手でしめあげられつつあったのだ。自分たちの生存と意思表示の集りとして新人画会が結成された。靉光、井上長三郎、糸園和三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介、麻生三郎。あたりまえのことができない時代であった。新人画会は第一回展を銀座の日本楽器画廊に開催(四月)、第二回展を同画廊に開催(十一月)。一九四四年に第三回展を資生堂ギャラリーに開催(九月)。この年から空襲が始まりひどくなった。絵の展覧会は開催不可能になった」(P.187)

そして麻生三郎は空襲で自分の仕事場と作品の大半を焼失する。彼は10歳のときに関東大震災も経験しており、家族は難を逃れたが家財はすべて焼失した。凄惨な焼け野原は少年の心に大きな衝撃を与え、「子供のころから不安とひどい恐怖症を持っているので、みんなは慢性神経衰弱だというのだ」と語っている。だがそれ以上に空襲で作品を失ったことは、耐えがたいものであったに違いない。生命を削りながら描いた、自分の身代わりのようなものだったのだから。しかし麻生はそれを淡々と書き記している。
 
「1945年4月、二回目の東京の空襲でわたしの仕事場は焼失した。このような時期の作品そしてそれ以前の作品をたばにして焼いてしまった。特殊な現実の混乱と矛盾のなかで自分の伝統をつくることがわたしの生活であると確実に思いつめていたが、そのものを焼失したのだ。その夜わたしは南林間にいた。次の日新宿でおろされ、小滝川を歩いて大きな爆弾穴のわきをぬけて目白通りに出た。すっかり焼けていた。目白通りから我家は一望された。長崎の霜田橋の仕事場に着いたが家はなく作品のあった場所は白い灰のかたまりになっていたのだ」(P.16)

だが、厳しい時代が麻生に残した記憶は、ただ悲惨なものだけではなかった。松本竣介や友人たちの生きざまのなかに、それはあった。

「空が蒼ければ蒼いほど嘘があるような生活であった。都会は空襲で焼けただれ、私も薗田も兵隊にかりだされた。友人たちはどうなったか、さっぱりわからなくなった。私は復員してきたが家は焼かれ、惨めな生活がつづいた。竣介は育英社(中等通信教育)の仕事をしていた。教案作成のめんどうな仕事であった。彼は大豆を食いながら血のけのない顔をして東中野になる育英社に出かけていた。育英社では中野淳が手伝っていた。ひどく肉体的にはまいっていたが、生活的には激しい仕事をつづけていた。彼は生命を削っていたのだ。
 夫人への手紙は実に美しい文章だ。隣組の米の配給を一人で空襲のあいまにとりにゆく自分自身のことを書いているのであるが、彼の絵をみているような、素直な、そして誠実な彼の性格が感じられる。いつ空襲でどうなるかわからない生活のなかで、この手紙のなかみは澄みきっている。不思議なくらい静かである。サイレンがきこえない竣介のことを思うと、彼の小品の風景そのままである」(PP..187-188)

IMG_2211.JPG
前掲書より 松本竣介が出征する麻生にもたせた手書きの「麻生三郎詩篇」

これを読むと、松本竣介はサイレンの音が聞こえないほどの聴力だったことがわかる。

「私は彼に会うと筆談で長いこと会話をつづける。彼はときどき調子のはずれた声を出して笑う。その後、薗田も死んで、彼らとの会話はすっかりなくなった。いまでは会話というものがなくなった。竣介や薗田のような誠実な理想家はいなくなった。薗田の骨をひろって下落合の火葬場を出て中井駅まで歩いた。火葬場の煙突は、竣介が描いた落合風景には何回出てきたかもしれない煙突だ。戦争中、兵隊靴をはいた竣介はこの道を歩いた。道は埃っぽく石がころがっている。このあたりの風景はすこしも変わっていない。彼の描いた焼跡の風景と変りはない。いま私とならんで歩いている人々は、彼らとはなんの関係もない人たちだ。変っていない風景に登場人物が変わるだけである。前と後とはなんの関係もない。竣介の友人たちとその周辺のできごとはただ人間のいのちの表現であったのだが、まったく関係のない顔をしてこのまま歴史が切断されてしまうにはあまりにも重い「人間」の問題をもっている」(P.190)

IMG_2209.JPG
鎌倉近代美術館「所蔵品による松本竣介・麻生三郎展」カタログ   
ふたつ並んだところを見るとホッとする。ふたりはいまでも友達なんだね。star

(つづく)
 
2016.01.10 Sunday

「カマキン最後の展覧会」3ー「文化」ってこういうものなのか

(12月30日のつづき)

 鎌倉近代美術館の基礎を築いた土方定一の『日本の近代美術』(岩波文庫2010年)によると、「松本竣介の作品系列を見てゆくと、この年(1941年)を境として画面のなかの作家の心理的位置が底部で変化してしまっているのをみないわけにはいかない」という。

 1940年10月、第二次近衛内閣のもとに大政翼賛会が発足した。日中戦争の勃発以来、自発的な従軍画家が中国大陸に渡って戦争画を描いていたが、やがて陸軍や海軍は積極的に戦意高揚の道具として絵画を扱うようになる。洋画日本画を問わず画壇の中心的画家たちに「作戦記録画」の制作を指示し、それらの作品を目玉にした大規模な戦争美術展が開かれるようになった。ちなみに現在公開中の映画「FOUJITA」には、藤田嗣治「アッツ島玉砕」(1943年制作)が飾られた展覧会のシーンがあるが、セリフなしのスクリーンに、賽銭を投げる音と嗚咽の声が響いていた。作品はあたかも殉教図のようにして拝まれたのだ。

 1930年代後半から、美術界への統制・干渉は強まっていたが、1941年1月に雑誌『みづゑ』に「国防国家と美術」という国策的な座談会が掲載された。そこで陸軍情報部の鈴木庫三は「私は今日は大体好い機会と思ふ。画家、彫刻家の自然淘汰が出来ると思ふ。‥‥だから幾ら自由主義を翳して威張って居ってももう駄目です。言ふことを聴かなければ絵具とカンバスは思想戦の弾薬なりといって配給を止めてしまふ」と発言している。
 これに対して、松本竣介は同誌四月号に『生きてゐる画家』を投稿した。この文章が軍部への反論であるか否かについては議論があるようだが(土方定一は「人間と芸術の名のもとの抗議」と取っている)、「芸術に於ける普遍妥当性の意味は私達は今日ヒューマニティーとして理解してゐる」と述べている。この発言は、当時の厳しい状況下、一介の青年画家の立場としてはギリギリの抵抗だったのではないだろうか。
  
いずれにしてもこの年を境に、彼の作風は変化した。
それまで透明で深い色調で都会の風景や人びとの哀歓を描いていたのが、以降は「人間=群衆=都会の哀歓はなく、人間のいない、人間がいるとしても背中をむけたり、影のように、ひとり歩いている小さな人間が描かれている。この影のように小さく歩いているのは松本竣介であるが、ここには善意による愛情と共感につながる『都会』風景はなく、孤独と絶望のなかにいるあわれな精神の深淵に反映する建物風景となっている」「昭和十六年から十八年にかけての強靭で透明な画面のなかをひとり歩いている松本竣介は、「画家の像」(昭和十六年)、「立てる像」(昭和十七年)として、街を遠景とした自画像、また家族像を画面一杯に大きく描いている。孤独と絶望のなかの心理風景をひとり、ことことと靴音を低くたてて歩いている松本竣介は、ここで人間としての、愛情につながる共感のなかの人間の威厳を、この画面で人間不在の現実に対決させたかったのにちがいない」(土方定一・前掲書pp..232-233)
土方定一のこの本を読んでみるとわかるが、彼は非常に客観的にものごとを書く評論家である。引用箇所の熱い表現は、松本竣介への強い思い入れを感じる。

* * *

「松本竣介は一九四八年六月八日に死んだ。その日は陽が強かった。俊介は暗い部屋に横になっていた。上野の美術館では毎日新聞社主催の第二回連合展が開かれていた。彼は『彫刻と女』、茶の『建物』、緑の『建物』を出品していた。搬入の前から彼はわるかったが、死は突然であった。会場にいた私に連絡があったのでそのまま下落合の彼の家にかけつけたが、最後に会うことはできなかった。
 顔は白い布の下で彼の精神のかたまりとなっていた。彼のずんぐりした指のある手も画家の手であった。ながい時間がかたちをつくり、形になってそこに存在した。彼の精神がそのままそこにあった」(麻生三郎『絵そして人、時』中央公論美術出版 p.180)

IMG_2207.JPG
           麻生三郎「自画像」1935年

 カマキンの展示を見たとき、私は松本竣介と麻生三郎が親友であったことを知らなかった。それでも、あの展覧会でいちばん私が惹かれたのはこの二人の絵だったし、カマキンにとってもこの二人は縁の深い画家だったようである。
 展覧会を観た後いろいろ本を読んだので、当初の感覚にきちんと立ち戻りたいのだが、この「自画像」は「感受性が強くて神経の細そうな、つきあうにはちょっと骨の折れそうな、でもすごく真面目な青年」という印象だった。額の白と青、向かって左の耳の黄色がすごくいい。反対側の頬の赤も。
 ほかの大多数の絵とおなじように、この作品は「へぇー」という感じで落ち着いて観ることができたのだが、「死者」はそうはいかなかった。

IMG_2206.JPG
              麻生三郎「死者」(1961年)

 かなり大きな作品で、写真ではとうてい実物の迫力は伝わらないが、自分の前に、がーん、と立ち現れたのである。
「壁画が出現した」、といえばいいのだろうか。ほかの作品とはボリューム感がぜんぜん違う。ぐおー、なのだ。
この写真はけっこう「わかりやすく」撮れていて、右上に手を広げて歩いている人と、左端中央へんから画面右下へと斜めに横たわっているような人が見える。上は男で、下は女だろうか。男の頭は曖昧模糊としていて、大きな目玉が一つ? そのうえに顔の輪郭のようなものもある。女の上には子どもがいるのだろうか。

 ただ実物をみたときは、油絵の具の質感がぐいぐい押し迫ってきて、じっと目を凝らしても、どこがどうなっているのか、細かいところはよくわからず、「まとまった身体」には見えなかった。具象物がほとんど崩壊してしまって抽象になりつつある、と言えばいいのか。こういう絵の場合、見ている人の脳に記憶・蓄積されている画像などで、見え方がかなり違うのかもしれない。
(この後はかなりグロテスクな文章になるので、読みたくない人はスルーしてください)

 私の場合は「死者」という題名も大きく影響して、まず東京大空襲など戦争写真の死者のイメージが湧いてきて、それに基づいて画面を見ることになったが、そういう写真を見ておらず、別の画像のイメージをたくさん持っている人なら、ぜんぜん違う解釈になるかもしれない。いずれにせよ個人的な見え方としては、まず画面底辺の白と黒の部分は「焼け野原」のように見えたし、男も女もそして子どもも、爆弾で身体の一部を吹き飛ばされたり、焼夷弾で焼け焦げたりした像が結ばれた。画面のあちこちには、身体の一部や頭蓋骨などが浮かんでは消えるような気もした。
そして黒、白、赤がなんとも生なましい。爆弾の硝煙、空を舞う破壊された家屋の残骸、肉が砕けて骨が露出している人間の身体。黒と白と赤は、火と肉、血、骨、焼け焦げ、崩壊した漆喰の壁、砕けた瓦の色なのだ。

 見ているだけでもすごく体力を奪われるのに、これを描いた画家はどんなだっただろう。想像を絶する体力が必要だったはずだ。
ひと昔前には「一般に日本画家は長生きで、洋画家は短命」と言われた。わかるような気がする。麻生三郎と同世代も驚くほど短命な画家が多いが、彼は87歳まで生きた。ちょっと信じがたいが、先に逝った仲間たちの代わりに描こうとしたのかもしれない。

(つづく)

 
Powered by
30days Album