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2017.12.17 Sunday

それぞれにとっての "AMAZING GRACE"

 

早いもので2017年もあと2週間となりました。

でも、昔とちがってウキウキした感じがなくなっているのは自分が年をとったせいでしょうか?(笑)

来週はクリスマスというのに、あんまり「盛りあがり感」がない、、、アセアセ

 

それでも体調を崩さないように、

そして心の健康を維持することが大切だと思うので、

一週間に一度は「街」へ出て、心に栄養をあたえようと思っている今日この頃でアリマス。

 

* * *

 

さて昨日は岩波ホールでフランス映画「女の一生」を観て、

かつて周恩来が足しげく通った「漢陽楼」でレタスチャーハンを食べ、

それから明治大学リバティアカデミーのオープン講座「世界の民族音楽を聴く」に参加しました。

 

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たくさん建物があるうち、御茶ノ水駅に一番近い「グローバルフロント」。

明治大学に新しい建物が建ってから敷地内に足を踏み入れるのは初めてです。

 

旧校舎のときは、たしかこの場所から道路を隔てたあたりに明大生協がありました。

私はほかの大学でしたが、神保町へ来るついでに明大生協で文房具や日用品を買った記憶があります。

 

「よろず屋」みたいな感じに物が雑然と置いてあって、

生協職員の接客態度もけっこうユルい感じで、

でも「活気」や、「希望」とは言えないまでも「新しい未来へ向かう感」はありましたね。

 

そのような過去の風景は様変わりし、

新しい風景の中にそびえるビルにも馴染まないと、、、と中へ入りました。

 

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去年の「絨毯好きのつどい」にいらしてくださった石川修次さんが司会と前半のレクチャー。

 

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最初にバンジョーを演奏されたあと、

「開拓から発展への歌のアメリカ史」というテーマで、

とりわけ「アメリカ第二の国歌」と称される「アメイジング・グレース」についてレクチャーされました。

 

1.  Amazing grace!(how sweet the sound)
That saved a wretch like me!
I once was lost but now I am found
Was blind, but now I see.

 

2.  'Twas grace that taught my heart to fear.
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.

 

3.  Through many dangers, toils and snares.
I have already come;
'Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.

 

4.  When we've been there ten thousand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we've first begun.

 

1.  驚くべき神の恵み!(何という心地よい甘美な響きだろう!)
私のような、よるべき道を見失った罪深い哀れな者をも神は救ってくださった。

かつて私は道を迷っていたが、今は神が私を見つけてくださった。
かつて闇のなかにいた私だったが、今は見え、闇を出て光のなかにいる。

 

2.  神の恵みというものが、私の心に畏敬する(畏れる)ということを教えてくださった。
そしてこれら恩恵が心の不安や恐怖から私を解放してくれた。
神の恵みがどれほどありがたくそして尊く思えたことだろうか。
私が初めて祈り、神の存在を信じたときに。

 

3.  多くの危険や苦難、そしてさまざまな誘惑を乗り越え、
私はようやくここまでたどり着くことができた。
この神の恵みというものが、こんな遠くまで私を無事に導いてくださったのだ。
さらに神の恵みは私を生まれ育った家(故郷・天国)まで導いてくださることだろう。

 

4.  彼の地に着いて一万年も経ったときも、
太陽のように明るく輝きながら
我々は日のあるかぎり神への讃美を歌い続ける、
初めて歌った時と同じように。

 

いただいたテキストによる歌詞と大意ですが、4番の歌詞は後世の人によって加えられたとのこと。

ジョン・ニュートンが作詞したオリジナルの4番以降は次のようなものです。

 

4.  The Lord has promised good to me,
His word my hope secures;
He will my shield and portion be,
As long as life endures.

 

5.  Yes,when this flesh and heart shall fail,
And mortal life shall cease;
I shall possess, within the vail,
A life of joy and peace.

 

6.  The earth shall soon dissolve like snow
The sun forebear to shine;
But,God who called me here below,
Will be forever mine.

 

4.  主(=神)は私に良いことを約束してくださった。
主の言葉は私の希望の支えであり、それを確かなものにしてくれる。
主は私の盾となり、私の一部となってくださるだろう、この命が続くかぎりは。

 

5.  そう、この肉体と心が朽ち果ててしまい、
このかぎりある命が終わるとき、
それでも私は帳のなかに隠されている喜びと平和の命を得ることができるだろう。

 

6.  地球はまもなく白い雪のようにとけ、そして太陽も輝きを失うだろう。
しかし、こんな卑しい私にさえ声をかけてくださった神は、
永遠に私とともにあるだろう。

 

やはり後世の人が加えたという4番は、ジョン・ニュートンの言葉ではないなという気がします。

わたしはオリジナルの5番に惹かれます。

 

ウィキペディアより、以下にジョン・ニュートンの経歴を引用させていただきます。

石川さんの解説では、彼の母が早くに亡くなった後、継母に育てられるなど愛情面で恵まれなかったこともあり

「へそ曲がりであった」ことなどが紹介されました。

思うに、ジョン・ニュートンは心がすさみ自暴自棄的な毎日を送っていたのではないかと想像します。

それが運命によって自らの過ちを悟り、時間をかけながら魂を恢復させていったのではないでしょうか。

 

作詞者はジョン・ニュートン (John Newton,1725–1807)。作曲者は不詳。アイルランドスコットランド民謡を掛け合わせて作られたとしたり、19世紀に南部アメリカで作られたとするなど、諸説がある。

ジョン・ニュートンは1725年イギリスに生まれた。母親は幼いニュートンに聖書を読んで聞かせるなど敬虔なクリスチャンだったが、ニュートンが7歳の時に亡くなった。成長したニュートンは、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなったが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に携わり富を得るようになった。

当時奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症脱水症状栄養失調などの原因で死亡したといわれる。

ニュートンもまたこのような扱いを拉致してきた黒人に対して当然のように行っていたが、1748年5月10日、彼が22歳の時に転機は訪れた。イングランドへ蜜蠟を輸送中、船が嵐に遭い浸水、転覆の危険に陥ったのである。今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈った。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったという。すると流出していた貨物が船倉の穴を塞いで浸水が弱まり、船は運よく難を逃れたのである。ニュートンはこの日を精神的転機とし、それ以降、酒や賭け事、不謹慎な行いを控え、聖書や宗教的書物を読むようになった。また、彼は奴隷に対しそれまでになかった同情を感じるようにもなったが、その後の6年間も依然として奴隷貿易に従事し続けた。のちに、真の改悛を迎えるにはさらに多くの時間と出来事が必要だったと彼は語っている。

1755年、ニュートンは病気を理由に船を降り、勉学と多額の献金を重ねて牧師となった。そして1772年、「アメイジング・グレイス」が作詞された。歌詞中では、黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにも拘らず赦しを与えた神の愛に対する感謝が歌われている。

この曲のほかにも、彼はいくつかの賛美歌を遺している。

 

レクチャーではバグパイプによるもの、ジュディ・コリンズの清らかに歌い上げるもの、

クラレンス・アシュレイによるリラックスした印象のもの、アメリカの教会でのメロディが違う「朗唱」に近いものなど

さまざまなアメイジング・グレースを音源から紹介してくださいました。

 

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後半は音楽ユニット「やぎたこ(柳澤昌英&辻井貴子)」のお二人による演奏とレクチャー。

後ろにずらりとならべてあるたくさんの楽器を使って

アメリカン・フォーク・ミュージックを楽しませてくれました。

 

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とても楽しい時間でした。

石川さん、「やぎたこ」さん、ありがとうございました。

 

* * *

 

"AMAZING GRACE" は名曲で、だれもがどこかで聴いたことがあるのではないでしょうか。

身構えずに聴いて「ああ、きれいな曲だなあ」と思えるような歌い方は

子どもでも誰でも親しみを持つのではないかと思います。

 

 

私は特定の宗教は信じていませんが、幼稚園がキリスト教系でキリスト教文化には多少なじんできました。

いまでも「たまに」ですが、礼拝に行くことがあります。

 

でも、そこで歌われる多くの賛美歌と、"AMAZING GRACE" はどこか違う、特別な何かがあると感じてきました。

そして原文と日本語に訳された賛美歌の歌詞とも違う。

 

驚くばかりの 恵みなりき
この身の汚れを 知れるわれに

 

恵みはわが身の 恐れを消し
任する心を 起(おこ)させたり

 

危険をもわなをも 避け得たるは
恵みの御業と 言うほかなし

 

御国に着く朝 いよよ高く
恵みの御神を たたえまつらん

(新聖歌233番「おどろくばかりの」)

 

大意としては間違っているわけじゃありません。

よく日本語に訳されたなあと思います。

 

わたしが感じる「違い」というのは、言葉の強さ、激しさです。特に1番の。

"wretch"  "blind" 

きつい言葉が使われています。

「自分自身がそうだ!」と叫んでいるのです。

 

おそらくジョン・ニュートンは経験したのだろうと思いますが、

自暴自棄になって、「この世を呪い、自分をも呪う」ような暗闇のなかをずっと歩いてきて、

あるとき運命によって「光」が見えた、

単なる美辞麗句を並べた歌ではないと思うんです。

 

だから、新垣勉さんの歌うアメイジング・グレイスは居住まいを正して聴きます。

 

 

新垣勉さんがどのような方かについてはこちらです。

 

 

* * *

 

数え切れないほど多くの歌手が、アメイジング・グレイスを歌ってきました。

歌い方はこうでなくてはならない、という基準はありません。

それぞれの人が、それぞれの人生のなかで得てきたものから

この歌をうたい、聴いていけばよいと思います。

 

それだけこの歌は「ふところの深い歌」なんでしょう。

 

たくさん歩いてきて、ずいぶん遠くへ来たなあ、と思うとき、

こんな "AMAZING GRACE" はいかがでしょうか?

 

 

ジェリー・ガルシアの  "AMAZING GRACE"。

 

いやあ、枯れっぷりがいいですねえ。

 

それぞれにとっての "AMAZING GRACE"。

楽しみましょう。

 

2017.12.03 Sunday

永井荷風の誕生日

 

12月3日は永井荷風の誕生日。

昨日は市川市文学ミュージアムに行ってきた。

 

『「断腸亭日乗」起筆百年を記念して

永井荷風展

荷風の見つめた女性たち』

 

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市川市は多くの文学者たちが住んだところで、文教政策にも力を入れている。

中央図書館の館内にはミュージアムもホールもあって立派だけれど、

なによりも図書館が多くの親子連れなどで賑わっていることが印象的だった。

 

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今回のフライヤー、入場券、プレゼントの「しおり」だけれど、

このフライヤーの四隅にある「イメージ画像」にはちょっと面食らった。

 

いまはミュージアムも人を呼ぶためにいろんな工夫をしていて、

特に国立科学博物館などの「人を呼ぶ展示方法」は隔世の感がある。

 

上の「イメージ画像」も結構な予算をかけて撮影しているんだろうけど、

個人的にはチープな感じが否めず、ちょっとついていけない。

展示には『断腸亭日乗』の原本というお宝があるのに、なぜそれを表面に配さない?!ゆう★

(テーマが荷風先生なので、ちょっと毒づいてみました)

 

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(展示会パンフレットより)

 

『断腸亭日乗』の原本を見たのは初めてだったが、

比較的小ぶりで(日記だから当然か)、

しかし雁皮紙に刻まれた墨の色いまだに鮮やかで、侍の血を引く荷風の達筆、

「掌中の玉」といってもよいほど美しかった。

 

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『東京人』12月号と展覧会パンフレット

 

ちなみに『東京人』には、市川市文学ミュージアムに膨大な「荷風コレクション」を寄贈した

近藤邦男さんの記事も載っている。

 

書籍千二百九十五点、雑誌千八百十三点、荷風原作の映画や演劇のポスターやチラシ、

写真類や荷風関係の記事を掲載した新聞雑誌のスクラップ類、トータル五千点近くだという。

たとえばポスターやチラシ、新聞記事などは、その時にはありふれたものであっても、

時代を経て生きる人々が入れ替わっていくと、コレクションの価値が飛躍的に高まる。

 

コレクションの醍醐味ってこれだよなあ。

それに比べると私なんて、物欲にまかせて集め散らかしたという感じ。ゆう★

 

昨日は『荷風と東京』などの名著がある川本三郎さんの講演、

そして川本さんと持田叙子(のぶこ)さんとの対談があった。

 

川本さんの描かれる文章は、眼差しが温かくて好きだ。

初めてご本人のお話を聞けたが、やはり温かなお人柄を感じさせた。

 

川本さんが「散歩の荷風」を書いたとすれば、持田さんは「家の中の荷風」に焦点を当てたとのこと。

ひと昔前は、荷風ファンといえば「中高年のおじさん」だったけれど

持田さんをはじめとする女性の荷風ファンも現れて、荷風の読み方が広がっているようだ。

 

* * *

 

さて、今日は荷風先生の誕生日ということで『断腸亭日乗』をすこし引用させていただく。(一部非常用漢字を変換)

 

昭和19(1944)年12月3日

快晴。日曜日。老眼鏡のかけかへ一ッくらい用意し置かむと思ひて昼飯して後外出の支度する時警報発せられ砲声殷殷(いんいん)たり。空しく家に留る。晡下(ほか)警報解除となる。今日は余が六十六回目の誕生日なり。この夏より漁色の楽しみ尽きたれば徒(いたずら)に長命を歎ずるのみ。唯この二、三年来かきつづりし小説の草稿と大正六年以来の日誌二十余巻だけは世に残したしと手鞄に入れて枕頭に置くも思へば笑ふべき事なるべし。夜半月佳し。

 

(展覧会パンフレットより)

 

今回、その日記を入れていた手鞄も展示されていた。(写真左下)

 

この日記を書いた翌年3月、東京大空襲により住まいの「偏奇館」は焼失するが、

荷風はそのときも鞄を枕元に置いてあったため『断腸亭日乗』は無事であった。

 

その日の『断腸亭日乗』はこちら

 

展示されている『断腸亭日乗』は、荷風にとって一番大切なものだった。

 

それを見ることができた。

昨日はいい一日だった。

 

 

2017.11.11 Saturday

映画 SONITA

 

2回目のトークの続きの記事を書く前だが、

中東における女性の結婚について考えさせられる内容があったので紹介したい。

 

渋谷のアップリンクで上映中のロクサレ・ガエム・マガミ監督のドキュメンタリー映画 "SONITA" 。

予告編で「難民としてイランに住んでいるアフガニスタンの少女の話」であることを知り、

特別な思い入れもなく見たのだが、ぐいぐいソニータの世界に引き入れられた。

 

兄の結婚の結納金を準備するために、その妹であるソニータが9000ドルで”売られ”ようとする(結婚を強要される)話だ。

ドキュメンタリー映画といっても、監督が主人公の人生に介入していく異例の展開になるのだが、

「ポップスでは私の思いは表現できないからラップを選んだ」というソニータが

絶体絶命の境地で「ミュージックビデオ」を作成してユーチューブにアップした映像に心を揺さぶられた。

 

 

brides for sale  (売られる花嫁)   by Sonita Alizadeh

 

声をひそめて話させて 少女が売られる話だから

批判すれば法典に背く 女性は沈黙を強いられる

 

 

沈黙の代わりに私は叫ぶ 心の傷をさらけ出す

幼くして値札をつけられ 疲弊した体で私は叫ぶ

 

15歳の子どもなのに 男たちが求婚しにやってくる

この慣習には戸惑うばかり 親が娘を売るなんて

 

父親の心配はお金のこと 金額しだいで私を嫁がせる

与えられた食事や服は 無条件の親の愛だと思ってた

見返りが必要な愛ならすべて拒否したのに

 

少女たちは閉じ込められ まるで食用に育てられた羊

”売り頃だ”と言われるけど 目も耳もある人間なの

抗議する羊は見たことある? 涙を流す羊を見たことある?

 

どうか遠くにやらないで 私なら家族を売りはしない

でも命を授かった恩に どうやって報いればいいの?

 

 

もう黙っていられない その手を離して 窒息しそう

話しかけてもらえずに 生きてる実感もなかった

 

死んでいるのと同じなら なぜムチの痛みを感じるの?

口を閉ざされた少女は どう人間だと証明する?

どこかへ逃げるか自殺する? そんな選択はバカげてる

 

たとえ拷問を受けても あなたを困らせはしない

私を売ってあなたが幸せなら ”幸せです”とウソをつく

あなたの苦痛と引き換えに 私の笑顔を差し出そう

 

でもコーランを開いてみて ”少女は売り物”と書いてない

どうか私に構わないで もう化粧はうんざり

化粧でも隠せない顔の傷 こんな扱いは敵でもしない

愛のない人に抱かれたら 誰でも心が傷つくはず

 

私は歌い続けられない あなたの幸せを願うから

だけど私をよく見て この顔を忘れないで

 

もうここを離れるけど あなたの面倒は誰が見る?

残していくあなたへ 私の人形を置いていく

あの子を泣かせないで 私のようにあの子を売らないで

形見として置かせてほしい

 

* * *

 

ユーチューブでは字幕が英語なので日本語とのタイムラグが生じて残念だが

映画を見ているとき、彼女の叩きつけるような声と日本語字幕が合わさり

聴いていて身体が震えた。

 

映画は約2年間かけて撮られたが、

最初の方の彼女の歌と後半の歌では、感情のこもりかたがまるで違う。

それはやはり強制的な結婚を前にして

追い詰められながら、持てる力をふりしぼって抗う経験がそうさせたのだろう。

彼女の表情もまた「考える人」としての深みを増したように感じた。

 

部族絨毯の背景にある大きな世界の一部をかいま見たような気がする。

 

渋谷のアップリンクで上映中

 

 

2017.04.17 Monday

北インド古典音楽@源心庵

 

きのうは天気も良く初夏のような陽気。

絨毯好きのつどい2016」に来てくださった寺原太郎さんのコンサートに行ってきた。

 

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「絨毯好きのつどい」以来、寺原さんが主催している「世界音楽紀行」に通うようになった。

 

寺田亮平さんのトゥバ音楽を皮切りに、スウェーデン音楽、チベット音楽、アイリッシュ音楽と聴いてきたが

なかなか聴けない世界の音楽を生で聴けるチャンスだし、

毎回行くたびに新しい収穫があって、楽しみにしている。

 

この「世界音楽紀行」とは別に、「数寄の庵で聴く北インド古典音楽」に行ってきた。

 

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左の建物が、江戸川区の行船公園内にある数奇屋造りの日本建築「源心庵」。

月見台が大きく池へ張り出していて、水がすぐそばに感じられる。

池には鯉やマガモなど水鳥がたくさん。

建物から池をへだてた対岸には、葉桜となりかけた桜が見えた。

 

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すみません、最初はブログ記事にするつもりじゃなかったので、

コンサート終了後の日暮れの写真で見栄えがしませんが、よく手入れされた素敵なお庭もありました。

 

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今回のフライヤー、これまた持ち回っていたので折り目クチャクチャ汗

 

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当日いただいた資料によれば、北インド古典音楽は

旋律を奏でる「主奏者」、リズムを奏でる「伴奏者」、通奏低音を奏でる「タンブーラー奏者」で構成されるという。

 

今回は二部構成で、前半は寺原さん(バーンスリー)、後半は H. Amit Roy 氏(シタール)がそれぞれの主奏者で、

どちらも伴奏者はタブラの池田絢子さん、タンブーラー奏者は寺原百合子さんだった。

 

北インド古典音楽をきちんと聴くのはこれが初めてだったけれど、

やはりインドという国の奥行き、深さのようなものを体感した。

 

まず一曲の長さ! 前半は50分超、後半も1時間超!

一番好きなバッハのゴールドベルク変奏曲が、演奏者にもよるけれど大体1時間なので、それに匹敵するわけだ。

しかも即興ですよ、あーた!

 

寺原さんいわく「まずその日演奏するラーガ(彩り)を決めるんですが、同じラーガでも

その日の気分によって30分で終わったり、1時間以上にもなったりする」そうな。

 

最初はチューニングから始まる。

主奏者が自分の基本となる音を決めた上で、タンブーラーとタブラもそれに合わせる。

あるインド音楽の演奏者はチューニングについて「神様の座る椅子を整える」と表現しました。

正しい音の椅子にのみ、神様が座ってくれるのです。

 

うん、この言葉、演奏を聴いた後ではすごくわかるー。

インド音楽って神様抜きでは語れないのではないだろうか。

 

* * *

 

さて、寺原太郎さん。

「春の曲にしたいんですが、インドの春って日本の春とかなり違うんですよね。

激しい感じのものが多いんですが、今回は比較的日本に近い感じのラーガでいきます。

桜のようにふんわりと美しく、けれどどこかにちょっと狂気をはらむような」

(スミマセン、うろ覚えなので発言が正確でないと思いますが)

ということで始まった。

 

「気楽に聴いてくださいね。後ろでお茶飲んでも結構ですし、池を眺めに立ってもいいですよ」

えっ、そうなのー。

 

それにしてもバーンスリーという横笛は懐が深い音を出す。

寺原さんのバーンスリーを聴いてからは、手持ちのCDのフルート協奏曲が物足りなく思えるようになったくらいだ。

いわゆる「室内楽」として発達したフルートと、バーンスリーは成立ちからして違うのかもしれない。

 

演奏を聴いたシロートの感想。

「比較的日本に近い」の言葉どおり、旋律もどこか日本的な気がしたし、

満開の桜をイメージして演奏されていたのかもしれない。

最初はおもむろに主奏者の演奏、

やがてタブラが入ってきてスリリングな掛け合いへと進行する。

 

あー、桜だ〜満開の桜〜、桜吹雪〜!

なんか身体がむずむずと動きはじめる。

前の席では首をくねらしてリズムを取っている人もいる。

人目を気にすることがなかったら月見台に出て踊っちゃってたかも。

 

「そうだ、こういうときは田中泯!

田中泯を呼んできて踊ってもらおう!」

と目を閉じて音楽を聴きながら勝手に妄想に耽った。

 

最初は「40分くらい」とのことでスタートしたが、興が乗って50分超〜!

すごいな太郎さん、熱演でした〜!

撥弦楽器や打楽器でも50分の演奏は体力勝負だと思うのに、笛ですよ笛!

声楽の人だって、あんなにぶっつづけに歌ったらもたないんじゃないかなー?

アメージング呼吸法!

今度、肺活量どれくらいあるかきいてみよう。

 

* * *

 

さて、休憩を挟んで H. Amit Roy 氏のシタール。

シタールも、ビートルズが採り入れたことぐらいしか知らないお寒い状況のワタシ。

 

前半のノリノリ気分を残しながら後半の演奏が始まった。

 

‥‥‥‥

 

前半の演奏は、"Music in the air〜!" という感じで

どちらかというと、音楽が外に向かって放たれていく印象だったのだが、

後半は非常に思索的で、個人の内面に向かって深く深く「問い」を発しつづけるような印象を持った。

 

前半は日本人の感性に近い音楽のように思えたけれど、

後半は、厳しい自然環境に生まれ、悠久の昔から積み上げられてきた思索の国の音楽だなと思った。

 

まあ、「何も知らない素人のたわごと」ということで聞き逃して欲しいのだけれど

なんだか、大きな悲しみをたたえている音楽という気がしたのね。

 

そうすると、いまの世界のこととか考えちゃって。

いまだって大きな自然災害が起これば、人間の力っていうのは本当に小さくて何もできないのに、

人間がつくりだす災いが猖獗を極めつつあるような世界のこと。

 

そんな世界に対して自問自答とともに、絶対者=神にたいして問いかけをつづけているような音楽。

アミット・ロイ氏の音楽からそんなことを感じた。

 

だから後半は首を振ることもなく、かしこまって聴いておりました。ぐすん

 

まあそれでも、アンコールに応えて演奏した曲は

「それでも世界は続く」という感じがして、ホッとした。

 

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きのうは興奮してなかなか寝つけなかった。

その混乱を引きずったまま記事を書いたので、支離滅裂だけれど、

それも私の1ページ。

 

 

心に響く音楽を聴けて、よかった。

 

 

 

 

 

2017.03.26 Sunday

パキスタン映画「娘よ」&「裁判官の娘」と呼ばれる絨毯

 

きのうの朝、NHK FM を聴いていたらピーター・バラカンさんが映画の紹介をしていた。

「ストーリーはわりと単純なんですけど、なんといっても風景がすばらしいし、俳優の演技や音楽もいい。お薦めです」

 

アフィア・ナサニエル監督「娘よ」というパキスタン映画。

こんなにグローバル化が進んでいるのに、パキスタン映画が日本で公開されるのは初めてという。驚き!

 

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「遥かなるカラコルム山脈の麓。

敵対する部族長との政略結婚から10歳の娘を守るため、

母と娘の命がけの旅が始まった。

フンザの狭い路地、黄金色に輝く杏やポプラの木々の中で繰り広げられるカーチェイス。

パキスタン北部の自然を背景に、伝統的な社会に生きる人々の葛藤を描き、

多くの観客の共感を集めた作品」

(「エキプ・ド・シネマの会・会報」より)

 

神保町の岩波ホールで3月25日〜4月28日まで。

 

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この映画の原題は "Dukhtar" 。

「娘」という意味で邦題とおなじだが、

部族絨毯が大好きならすぐ思い浮かぶのが

"Dokhtor-e-Ghazi" (裁判官の娘)と呼ばれるプレイヤーラグ。

 

* * *

 

以下、Tribeさんのサイトより引用させていただきます。

 

 

お祈り用絨毯にこめられた思い

 

バルーチ族には絨毯にまつわる美しい物語が伝えられています。

イランとアフガニスタンの国境付近に、その地域で評判の美しい娘が住んでいました。
彼女はティムーリ族というバルーチの中の一支族の高名な裁判官の娘でした。
ある時他の支族であるバールリ族のシャーマン(祈祷師)の血を引く若者が、彼女と恋に落ちて求婚しますが、裁判官の父親は二人の間を認めず、結婚はおろか彼を村から追放し、娘は秘密の場所に監禁されてしまいます。彼女を愛していた彼はスーフィー*のあらゆる技を駆使して彼女との結婚の許しを得ようと試みます。
彼に会えない娘はひとり篭って絨毯を織り続けていましたが、その時に織られた絨毯の文様は今までに見たことのない美しい紋様でした。そしてその文様は見る者の気持ちを幸せにする不思議なモチーフでした。彼女の織った絨毯は町でも大評判になり、二人の関係に同情する者が増えて行きました。頑固な父親も終には折れて二人の縁談を認めました。

彼への思いが彼女に美しい絨毯を織らせたのでしょうか。
その後二人は幸せに暮らしたそうですが、彼女はその後23枚の絨毯を織り、二人の娘達が母親に習って織ったものを含めると70枚ほどの絨毯がドクフタレ・カジイ(裁判官の娘)と呼ばれるようになりました。

(引用ここまで)

* * *

 

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いまは亡き Michael Craycraft さんの本にも「裁判官の娘」と呼ばれる絨毯が4枚掲載されています。

 

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19世紀中頃 Nishapur 産

 

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19世紀末 Turbot-i-Jam 産

 

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20世紀はじめ アフガニスタン・イラン国境付近の産

 

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19世紀中頃 Farah 産

 

(地名はいずれもイラン北東部からアフガニスタン北西部にかけて)

 

わたしのところにも「裁判官の娘」の祈祷用絨毯が一枚あります。

 

2012年4月に桜をのせて遊んだ記事からもう一度。

 

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ご覧のとおり、クタクタです。

 

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下のボーダー部分もタテ糸が露出していますが、糸の撚りがいまだに残っているのに感動します。

 

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フィールドの文様は、娘の願いをのせて飛ぶ鳥のようにも見えます。

 

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気品ある絨毯。

 

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全体像はこんな感じ。

 

* * *

 

映画の話に戻りますと「パキスタン」「部族」「結婚」など、部族絨毯好きなら見逃せないテーマ満載!

 

東京の後、他の地域でも上映される予定ですので、興味のある方はチェック!「娘よ」公式サイト

 

わたしもはやく見にいきたいな〜〜!きらきら

 

2017.02.04 Saturday

「最強のふたり」

先週の土曜日「たばこと塩の博物館」に行く前に、シネ・スイッチ銀座でフランス映画「ショコラ」を観た。



思った以上に重い映画だったけれど、主役のオマール・シーとチャップリンの孫であるジェームス・ティエレの演技に唸った。

2月6日月曜日の夜9時からBSでオマール・シー主演の「最強のふたり」がある。

フランスの大富豪と移民のものがたり。
オススメなので、興味がある方は是非どうぞ。

2017.01.30 Monday

「西アジア遊牧民の染織ー塩袋と旅するじゅうたん」

早いもので一月も終わろうとしていますが、みなさんお変わりありませんか。


2008年「たばこと塩の博物館」で「西アジア遊牧民の染織ー塩袋・生活用袋物とキリムー」という展覧会がありましたが

行こう行こうと思っていながら、結局行けませんでした。


当時博物館は渋谷にあり、染織のなかでも特に「塩袋」など袋物を中心とした展示でしたが、

第二弾の今回は博物館が墨田区のスカイツリーのそばに移転し、

展示内容も数点の袋物のほかは絨毯が中心になっています。


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日本で部族絨毯を観ることができる博物館といえば、

東京国立博物館(トーハク)東洋館でときどき松島きよえコレクションなどの一部が展示されるくらいです。

ただ残念なのは、展示が地下で照明が暗く、ガラスケース越しの展示なので

染料、材質、織りのディテールなどが、よくわからないことです。


今回の「たばこと塩の博物館」では、一部ガラスケース越しのものもありますが、

ケースなしの至近距離から観ることができるものがほとんどで、

照明もよく、染料や材質(羊毛・ヤギ毛・コットン)の質感がつかめます。


IMG_0012.jpg


講演会、映画会、ワークショップも開催されるので、

興味のある方は検索してみてください。


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右が今回の図録、左が2008年の図録で、ミュージアムショップで購入できます。

日本でトライバルラグを観ることのできる機会は多くないので

興味を持たれた方はご覧くださいね。

それでは。

2016.07.19 Tuesday

「おっかけ」の日々、そしてデジタルデトックス

 

九州から東海までは梅雨明けしたようですが、関東はまだ。

もうすっかり隠居ばあさんの生活になじみ、ぐんぐん成長する稲を見ながら散歩をするのが日課ですが、

たまに東京に出て「おっかけ」みたいなことをやってます。

 

「おっかけ」の対象は絵画だったりアーティストだったり。

 

一番手に挙げられるのは松本竣介かな、やっぱり。

東京藝大美術館で開かれた「いま、被災地から」で「画家の像」(1941)が展示されているのを知ったのが展覧会の最終日前日。

6月26日の最終日に駆け込んで、戦争前夜に描かれた代表作の一枚を観ることができました。

 

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画面を覆う不安と焦燥のなかで、家族を守ろうとするかのように立つ自画像。

みていて胸がいっぱいになりました。

 

* * *

 

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次の「おっかけ」は、今年の木村伊兵衛賞受賞の写真家・新井卓さん。

4月の終わりに新宿コニカミノルタプラザで彼の写真を見たのがきっかけ。

 

「ダゲレオタイプ」という銀盤に像を結ばせる最初期の写真技術を使い、

「核」をテーマに写真を撮りつづけている。

第五福竜丸、ヒロシマ、ナガサキ、そして福島。

ところが彼の写真は、いわゆるジャーナリスティックだったり政治的だったり、といった枠をほとんど感じさせず、

どう言ったらいいのか、「実存の重み」また逆に「実存の軽み」を突きつけてくるような印象を受けた。

こんな写真ははじめてだ。

 

銀盤写真って、サイズが小さいうえに照明光を反射してものすごく見辛い。

どうかすると鏡のように自分の顔が写ったりしてギョッとする。

それでも金属独特の質感は、印画紙に現像された写真とは全然違って、

はらわたにズコンとめり込んでくるような存在感がある。

 

展覧会に行って自分が「いいなあ」と思う感覚というのは、

作品に「共感」し「いい作品だなあ」と気持ちを噛みしめることがほとんどだけれど、

新井さんの写真は「圧倒される」感じ。

欧米人がよく絨毯に対し"appreciate"(良さを味わう)という言葉を使うけれど、

新井さんの写真には、"overwhelmed"という言葉の方がふさわしい。

 

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「モニュメント」という写真集も良くできていて、これはこれで非常に価値のあるものだと思う。

ただ、ダゲレオタイプの実物の質感と紙に印刷されたものでは大きな違いがある。

ご本人もそれは承知で、写真集はむしろ別の媒体として自分の作品を広める契機にしたい、と考えておられるようだった。

 

印画紙は同じ写真が何枚もできるが、ダゲレオタイプは複製不可能。

なので、新井さんの展覧会というのはかなり限定されたものになるけれど、

なんといま、川崎市民ミュージアムで新井さんの写真が展示されています。

7月24日(日)までなので、興味がある方はぜひどうぞ!

 

* * *

 

三つ目は「間接的なおっかけ」。

きのう7月18日、東京国立近代美術館で奈良美智(よしとも)さんの講演会があった。

 

私は別に奈良さんのファンではないが、武蔵美時代に麻生三郎さんが彼の恩師であったこと、

「(麻生)先生にお願いして松本竣介や靉光など、すでに他界した仲間たちの人となりを語ってもらう時、

僕は子犬のような眼をして真剣に先生の話を聞いていた」と聞き、

また、奈良さんがけっこう硬派であることは以前からうすうす感じていた。

 

ついでに「見る目のなさ」をさらすようだが、私は正直、彼の作品のどこがいいのかわからなかった。

村上隆よりは好きかな〜、レベルだ。

本人の話を聞けば、彼の作品にも少しは近づけるかもしれない。

 

さて当日は14時からの講演会の整理券を130名限定で10時から配布する。

やっぱ世界的に有名だし、オシャレ系の女性たちにも人気なようだから、朝早くから並ばないとムリっぽい。

前日はあまり体の調子が良くなかったので、

もういいや〜、吉増剛造展も会期あと少しだし、展示だけ見りゃいいか〜、と講演会は諦めて10時直前に着いた。

 

そしたらなんと、「講演会整理券の列はこちらです〜」と係員が呼びかけている。

ウホッ! もしかしてまだ大丈夫?

と「諦め」をさっさと投げ捨てて長蛇の列の最後尾に並んだ。

 

案の定オシャレな女性や美大生っぽいアート系男女などが中心で、

このなかで家計を浮かすために「1000円カット」に甘んじているのは私くらいのもんだろう! とヘンな確信を持った。

 

でも先頭が見えへんがな!

この長〜い列に並んでて、本当に整理券がもらえるのか?

でもそれなら係員が「定員オーバーですので並んでもムリです!手」とか言ってくれるよね?

 

‥‥そんなことを思っているうちに開館になり、列が動きはじめた。

係員の表情がやや不安気味になり焦りの色を露わにするころ、整理券配布カウンターが目の前に来た。

ヤッター! 117番、滑り込みセーフ!

 

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でも2時までに4時間もあるわ、ということで神保町まで歩いて映画を観て帰ってきた。

ああ、なんたる効率の良さ〜♪

 

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13時半から整理券番号順に講演会会場へ。

なかに入ると、そこは皆さんわきまえていてスマホで写真などを撮る人はいない。

 

いよいよ奈良さんが登場して映像を見せながら話をしてくれた。

彼は1959年青森県弘前生まれ。わずかに弘前弁を残した訥々とした語り口。

 

内容は主に若い世代に向けての話だったように思う。

自分の作品はよく「かわいい」とか言われるんだけど、ちょっと違うと思っていること。

自分が描く「子どもの絵」に触発されて、似たような絵を描く人が増えているけれども

自分から見れば「なんだか浅いなあ」と思えること。

(誤解のないように。奈良さんは全然偉ぶったところがなく、むしろシャイな印象を受けた)

 

彼が小学校の5年くらいまでは、昔ながらの農村風景や日常生活が残っていた。

除雪車が無かった時代の「雪切り」、同級生と遊ぶ時も赤ちゃんをおんぶしていた子がたくさんいたこと、

米を入れる俵も自家製だったこと、農村の労働力として馬が身近にあったことなど。

祖父が樺太で暮らしていたし、ソ連抑留者の話も聞いた。北海道にもよく行った。

「自分の原風景としてこういうものがあるわけだから、今の若い人とは違うよね」

 

高校二年のとき「ねぷた」の大きな絵を描いて「奈良は絵が上手い」と評判になったことがきっかけで

美大に進学したけれど、入学したら自分より上手いやつはいっぱいいた。

適当に大学生活を送っていたが、仕送りをヨーロッパ旅行で使い込んでしまい、

それが親にバレないように、公立の美大に入り直して、そこからは仕送りなしでやっていくことにし、

(美大系)予備校のバイトをしたら、教えた生徒がどんどん合格してバイト代が上がった。

なによりも高校生が「先生」と呼んで慕ってくれたことがきっかけで

「だったら僕もきちんと絵をやんなきゃいけないな」と努力するようになった。

学生仲間と一枚の絵をめぐって夜中まで論じたり、絵に対して真剣に向き合うようになっていった。

 

「いろいろな偶然がきっかけで運命がひらけ、今の自分があるのかなあ」

 

質疑応答も面白かった。

 

印象深かったのは「絵を描くときはどこから描きはじめますか?」という質問に「そのときによって違います」。

会場が騒然とする。

下絵とか、全然描かないらしい。

 

「事前に計画をしっかり練ってする旅行もあるけど、

僕は地図なしに旅行してみる、移動しはじめて、そのなかから方向性を見つけていく」

 

彼のアトリエの棚の写真を見せてくれながら「これがある作品の元になったもの」。

‥‥日系人捕虜の写真集、好きなレコード、こけしやオモチャ等々、

はっきり言って出来上がった作品とそれらを結びつけるのは難しい。

でも奈良さんの内面からみれば、それらがいろいろな形で影響をあたえあいながら作品へ込められているのだ。

 

一枚の作品ができあがるまでに、上からどんどん塗っていって最初とはまるで違う絵になる。

たとえば、最初たくさんの円や四角が浮かんだ絵だったのがどんどん塗り替えられていって、

円や四角は消え、「一見シンプルな」女の子の像に収斂されていく過程などがスクリーンに映し出された。

 

ここで「一見シンプルな」と書いたのは、奈良さんの絵の実物を観れば

印刷物で知っていた「ああ、奈良美智の絵ね」という思い込みが吹っ飛ばされるからだ。

私はこの日はじめて彼の「ハームレス・キティ」という作品を観て、

「アニメのイラストみた〜い」「かわいい〜」先入観とは似て非なる、立派な芸術作品だと思った。

 

「どうすれば絵が上手くなれますか?」という質問には

「そう思う時点で止めといたほうが楽かもしれないよ」と一瞬ギョッとする答えもあった。

 

「自分が高校生のときに描いたねぷたの絵が上手かった、みたいな話をしたよね。

でも、今の自分がその絵をみれば、確かに上手いね、でもただそれだけだよね、って思うはず。

そのあと俺はいろいろ努力したんだよ。そのなかでいろんなことを学び、つかんだ。

絵が上手いかどうか、っていうことよりも、そこで自分が得たもののほうが、表現にとってははるかに大事だと思う」

 

「自分が見てきたもの、経験してきたもの、努力したもの、それらすべてが作品のなかに込められている。

パッと見て似たように見えても全然違うのは、不思議とそれらが作品に出てくるから。

なぜだがわからないんだけど、作品にはぜんぶ出てくるんだよね」

 

これは奈良さんが語られた内容のごく一部です。

内容がご本人の意図を外れて私が誤解していたら申し訳ないのですが、

とにかく奈良さんの話はとても魅力的なものでした。

 

そういうわけで、奈良さんの作品を見る目が少し変わってきたように思います。

 

帰宅してポストカードセットを眺めていて気づいたこと。

奈良さんは、もちろん麻生三郎や松本竣介などの作品から大きなものを受け取っていると思うけど、

フィリップ・ガストンの影響もかなり受けているんじゃないかって。

 

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ガストンは1913年カナダ生まれ。KKKやユダヤ人大量虐殺をテーマにした。

彼もまた私にとっては謎の画家。

初期のいわゆる「上手い」絵から転じて、深刻なテーマをマンガのように描き始める。

上の絵などは、画家本人が「断罪されるべき対象である」KKKのコートをまとい自画像を描いている。

 

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ガストンといえば、横から見た特徴的な目と膨れた頬。

右は奈良さんの作品「ガストン・ガール」。

 

 

上の女の子の作品はいかにもガストンだけれども、この犬の題名も「ガストン・ガール」。

ううむ、意図が測りかねる〜。

 

アートの森は奥深く、謎に満ちている。

 

* * *

 

さて、実はここからが言いたかったことなのですが、

しばらくの間ネットと距離を取ろうと思っています。

 

暇があるとスマホをのぞいていますが、目にもよくないし、

ここらでちょっとデジタルデトックスしたほうがいいと思うようになりました。

 

ですのでブログはあまり更新できなくなると思います。

たまに気が向けば書くかもしれません。

 

それではみなさん、体調に気をつけてお過ごしくださいね。Docomo123

 

 

 

 

 

2016.04.05 Tuesday

中国の写真家・莫毅さんのこと


絨毯とキリムをテーマにしているこのブログだが、最近はそのテーマから外れる記事が多くなり、
これからどうしていこうかなと考えている最中だった。

4月、新年度にあたって、絨毯の記事を書こうとしていたのだけれど、
もう一度、日記のような記事になる。
絨毯好きのみなさまには申し訳ありません。

昨年、自分なりに断捨離をやって、中国関係の資料をかなり処分した。
多少は残してあるが、もうそれは「思い出」に近いもので、自分と中国との関係は「過去のもの」という認識になっている。
ところが1日に莫さんからメールが届いた。

莫毅さんは私と同い年の中国の写真家。
1996年に放送されたNHKのドキュメンタリー番組「中国の素顔を撮る」を偶然見たのだったが、
紹介された7人の写真家のなかで、わたしはとりわけ莫さんの写真に強く惹かれた。
紹介していたのは、第一回木村伊兵衛賞を受賞された写真家の北井一夫さん。

いま思えば、あの頃のわたしには、まだ「蛮勇」があった。
たまたま写真関係の仕事をしている妹が写真家名簿を持っていたので、北井さんの連絡先を教えてもらい、
不躾にも北井さんにイキナリ電話をかけたのである。

「あの〜、NHKのドキュメンタリー見たんですけど、すごく良かったです。
それで〜、莫さんっていう人の写真がとても印象に残って〜、
あの、ちょっと中国語の勉強してるもんで、莫さんに手紙書きたいと思うんですけど〜」

あのときわたしは30代後半で、もう少し分別があっても良さそうなものだったが、
北井さんがとても気さくな方だったこともあり、その後、お宅にお邪魔して、
北井さんご自身の作品なども見せていただきながら、莫さんの住所を教えていただいたのだった。

「あなたの写真、テレビで、見ました。
とても、良かったです。
わたしは、感動しました。
まるで、中国の、ヴァン・ゴッホみたいです。
がんばってください」

‥‥とまあ、こういう幼稚な内容で、
いまはあるのかどうか知らないが、各国で通用するという「国際郵便切手」を同封して投函した。
当時はいまみたいにメールが一般化されていなかったし、
中国語ソフトもまだまだだったから、手書きで手紙を書き、切手を貼って、ポストに投函したのである。
なんだか、とても、なつかしい。

あんな幼稚な内容だったけれど、莫さんはとても喜んでくれた。
その後、何度か手紙のやり取りをして、
オリジナル・プリントを数点購入したりしていたが、
やがて莫さんに辛い時期がつづくようになり、連絡をする機会もなくなっていった。

そして2012年の夏、十年以上連絡がなかった莫さんから突然メールが来た。
東京ミッドタウンで開かれる「TOKYO PHOTO 2012」でスピーチをするから来ないか、という。

北井さんからは、莫さんがドイツなどで評価され、近年中国でも大きな賞を受賞したと聞いていた。
莫さんの才能は、北井さんがいち早く見出した。
1996年の番組で紹介された他の写真家はみんな中国でそれなりに有名な写真家だったが、莫さんだけが無名だった。
経済的にも、社会的にも、苦しいようだった。

北井さんは、番組のナレーションでこう言っていた。

「わたしは莫さんの写真を見て驚きました。
写真に、莫さんの感情が表現されているのです。
いま、莫さんは中国でも『無視された写真家』です。
時代が、莫さんに追いついていないのかもしれません」

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そして2012年、現代中国の写真家として名声を獲得した莫さんと会った。
メールで「久別重逢」とか書きながら、手紙だけのやり取りだったから、実際に会うのは初めてだった。

早めに会場に着いたわたしが、莫さんの姿をみとめて「Mo Yi!」と声をかけたら、
莫さんは不思議そうな顔をしている。

そうか、
わたしは莫さんをテレビで見ているから知っているけれど、
莫さんはわたしの顔を知らないのだった。
このチビデブのちんけなオバさんが、苦しいときの自分を励ましてくれた人のイメージと違っていたのだと思う。(笑)

しかし、いずれにしても、莫さんが逆境にめげずに写真家として成功した姿を見ることができて、
わたしはとても嬉しかった。
そして、莫さんの瞳が、とても澄んでいたこと、
認められてからも、変な風に変わっていないーーそんな風に思えて、安心した。

莫さんはスピーチで、自分のこれまでの仕事について語った。
そのなかで1989年の天安門事件後の作品「揺蕩的車廂」を取り上げ、”ある日本人”の感想を紹介した。

「人びとの表情は暗く、みな押し黙っている。
バスは揺れながら走りつづける。
このバスの行き先はわからないが、
乗客はだれも降りることができないのだ」

作品を通じて自分の思いが伝わっている手応えを感じたーー莫さんはそう思ったようだった。
一方、それを聞きながら、わたしは自分を深く恥じていた。

なんという思い上がり。
なんという軽薄さ。
あのとき、自分はなんにもわかっていないくせに、あんなことを言ったのだ。
バスの乗客の気持ちが、自分も、いま、ようやく、わかりはじめたよ、と。

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あれから、もう3年が経った。
日本というバスは、いったい、どこに向かって走っているのだろう。
しかし、乗客はだれも降りることができないのだ。

* * *

莫さんは、もう日本に着いたようだ。

中国号バスに乗っている莫さんと、
日本号バスに乗っているわたし。

9日は、莫さんに会いにゆく。

* * *

莫毅さんの展覧会はこちら
2016.03.08 Tuesday

展覧会をめぐり「断片」と「埃」を想う


これまで特にアートファンというわけでもなかったが、
「カマキン最後の展覧会」以来、どうやら絵をみることが好きになってきた。

あれから松本竣介の評伝のいくつかや宇佐美承『池袋モンパルナス』などを読んで、もう、ぞっこんである。
「水晶のような男だった」と親友の彫刻家の舟越保武が語っていたくらいだし、
私のなかでは「竣介サマ〜!」になっている。ゆう★

とはいっても、ここしばらくは大規模な回顧展もないだろうから、
松本竣介の作品なら一枚でも二枚でも、ということで、
東京国立近代美術館で「ニコライ堂」(1941)「Y市の橋」(1943)、絶筆の「建物」(1948)を、
そして国立新美術館での「はじまり、美の饗宴展 すばらしき大原美術館コレクション」で「都会」(1940)をみた。

絨毯でもなんでも、やっぱり実物を見なければだめだ。
松本竣介の絵肌は透明感にあふれ、ガラス質のようなマチエールと描線がハーモニーを奏でていて、このうえもなく美しい。

中野淳『青い絵の具の匂い』によれば、松本竣介は藤田嗣治の技法から多くを学んだようだ。
個人的な印象では、藤田は多分に他者の目を意識して描いた画家であり、
松本は自分の世界を築くために描いた画家だと思っていたので、両者の結びつきは意外だったが、
ちょうど近美に展示されていた藤田の堅牢で滑らかなマチエールをじっくり見てみると、ああなるほど、と思った。

藤田は1944年に美術雑誌に書いた「戦争画制作の要点」でこう述べている。

「先ずキャンパスに下塗りを三回も施している。主に茶褐色で充分乾燥させて、その期間も三ヶ月はかける。
何のためかと言えば、記録画の耐久性を考えて、永久に不変な強靭さを獲得したいからである。
数年を出でずして褐色したり消える様な戦争画では後世に残し得ないからである。
ーー色彩に於ても、変色しない色を選んでいる。特に油に於ては、最も良質の油を五六種は混用している。
絵具が画布に密着して、硬性に落剥しない様に、又は何度も何度も透明色を重ねて、色の美しさを失わない様にやっている。
画面のどの部分を切り取っても絵画的の作品は失わせたくない。
たとえ一枚の絵が空襲を受けた場合に、その五分の一が残っても、十分の一が残っても、
その絵の全体が窺われるようなマチエールの堅固さとか、色彩の良質さとかいうものを窺われる様に注意している」


この文章を読んで、わたしはショックを受けた。
さすがだなあ。
藤田が好きかと聞かれたら、"not very much" なわたしであるが、やはり偉大な画家なんだろう。

* * *

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‥‥そういうわけで、わたしはフラグメントが好きである。??? 汗

* * *

大原美術館は、日本における西洋美術コレクションの草分け的存在ということもあって、西洋近代絵画が有名だが、
今回あらためて見てみて、日本の近代美術もとても良いものを集めているなあと思った。

今回は、関根正二、小出楢重、熊谷守一、中村彝(つね)、佐伯祐三の作品がすごいなと思ったし、
河原温の若い頃の作品に喜び、アンフォルメルの堂本尚夫にドカーンとやられ、
そしてコンテンポラリーの作家としては三瀬夏之助「君主論」が好きなタイプだった。

‥‥
いやいや、本題に戻ると(?)
大原美術館展でもわたしの「断片への偏愛」は変わることなく、
エジプトのフスタートから出土した陶片が、15、6片ばかり、一つの台に並べられていて、
しばらくそれに見入っていたのである。
もともとは瓶や皿や壺だったそれらは、断片となってもなお、人を惹きつけてやまないものを持っていた。

焼きものもカケラになると、割れた部分から釉薬のかからないもとの土の色が見えるし、
その土の硬さや滑らかさなど、さまざまな情報がわかっておもしろい。

出土した場所はエジプトだが、なかには中国から輸入されたと思われる陶片もあるそうで、
二匹の魚が向かいあった「双魚紋」は、中国から将来されてエジプトで流行した、
なんていう説明を読むと、大昔の中国からエジプトにやってきて今は日本に居るのねえと、しみじみしたりする。

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* * *

さて、東京ステーションギャラリーでの「ジョルジョ・モランディー終わりなき変奏」展であるが、
これも個人的にはかなり好みの展覧会だった。

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時代としてはピカソやキリコが活躍していた頃の人。
イタリアのボローニャに19世紀末に生まれた。
当時のパリではさまざまな新しい芸術運動が産まれていたが、
彼が18歳の時に父親が急死し、パリ行きを諦めて美術教師となり、
ごくありふれた壜や水差しなどを描きつづけた。

東京ステーションギャラリーは4階と3階が展示場になっていて、
3階部分は古い東京駅の赤レンガを上手に使っているため、無機質な白い壁に展示するのとは違った雰囲気を醸し出す。

以前、東京都庭園美術館で見た有元利夫展も、旧有栖川宮邸の室内での展示が功を奏していたなあ。
美術の素人の怖いものなしということで言うなら、モランディには有元利夫と近いものを感じた。

有元は最初コンセプチュアルアートに関心を持っていたが、
やがて、それよりは手仕事(メチエ)の愉しみを大事にするようになったし、
60年代末から70年代の「新しいムーヴメント」の時代に、
むしろイタリアルネッサンスや日本の「古典」や「様式」に備わる美に惹かれ、
平穏で静かで安らぎを感じさせる絵を描いた。

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さて、わたしが今にわかに注目しているマチエールだが、
モランディは、藤田嗣治や松本竣介とはまったく違う「ぼそぼそした質感」だった。
どうやらモランディは土や鉱物の粉末からできた顔料を使っていたらしい。
なるほど土っぽいが、それはモランデイの描く対象にふさわしい素材だったようである。

今回は静物画、花(彼は「造花」を描いた!)と風景画が展示されていたが、仕事の中心は静物画だ。
彼はかつて友人が古楽器のリュートを描いてくれと依頼してきたとき、
リュートのような貴重で高価なものを描くのが嫌で、おもちゃのギターとトランペットを描いたという。

だから静物画でも、豪華な花束や光り輝く果物や立派な食器などではなく、
これ以上ないほどに質素でささやかな壜や壺にこだわった。

もうひとつ、それらの壜たちにつもる「埃」をモランディはそのままにしたという。
というか、家族がその埃を取り去ることを許さなかった。
とはいっても部屋はきちんと掃除がされていたというし、彼は生活面でもきちんとした人だったようである。

「この埃の色と感触のおかげで、背の高い壜や深皿、古い水差しやコーヒー・ポット、
古風な壺や細い箱のすべてが、あたかもひとつにまとまっているかのように見えるのだ。
この埃は、無頓着や無精の結果なのではなくて、忍耐の結果なのであり、まったき平和の証人なのである。
喧騒な世界のあらゆる刺激から慎ましく身を引いた彼の沈黙のなかで、これら日常の事物たちは、
みずからの静かなる生(スティル・ライフ=静物)を過ごす」
(岡田温司『ジョルジョ・モランディ 人と芸術』 1967 NYでのモランディ展のカタログより)


* * *

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なんだか記事の内容が支離滅裂だが、「断片」も「埃」も、物の「イメージ=像」をゆたかにしてくれると私は思う。
うまく言葉にできないが、物は人間が認識するから存在する。
その認識の方法が、各人それぞれであり、なにが美しくなにが醜いかもまた違ってくる。

だから擦り切れた古い絨毯を大切にしている変人がいても、
その人には(いえ、あたしのコトですけど)その人の想いがあるのだ。

ヘンテコで意味不明の記事になってしまいましたが、
これは春の陽気のせいというコトにしてください。・・・

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