続 「トランシルバニア絨毯」の本
「トランシルバニア絨毯」の本の紹介のつづきです。

いわゆる「ダブル・ニッチ」と呼ばれる壁龕が上下に二つ配置された絨毯は、「トランシルバニア絨毯」のなかでも代表的なデザインです。
「カルトゥーシュ」と呼ばれるメインボーダーが特徴的。
このピースは茜、インディゴ、緑、オークル、白の色使いで、トルコ西部の村の絨毯のルーツはここかな、と思わせます。
ただアンティークのトルコ絨毯によく見られる「オーベルジーヌ」(茄子紫)は、この本では見当たりません。
開放的で明るく楽しい気分が感じられますね。 「黒の教会」所蔵の17世紀初頭のもの。

フィールドが黄色のものも多く見られるようです。

こちらは「シングル・ニッチ」で、壁龕がひとつのタイプ。
聖マーガレット教会の17世紀前半のもの。

「シングル・ニッチ」絨毯は、特に宗教的な意味を持たないとされていますが、このタイプは「祈祷用絨毯」に区分されています。
メインボーダーは「オスマン・パターン」と呼ばれています。
「黒の教会」の17世紀末のもの。

やはり黄色のタイプもあります。
もとはトランシルバニアの教会所蔵でしたが、現在は Brukenthal Museum にあります。17世紀後半。

「円柱」が織り込まれた絨毯は、円柱の数で区分されます。
こちらは二本の円柱のデザイン。
17世紀末の福音教会のもの。

「円柱デザインの絨毯」のルーツはオスマン帝国の宮廷絨毯ではないかと考えられています。やはり宮廷絨毯は、どこか漂う雰囲気が違いますね。
こちらはブカレストの国立博物館所蔵のフラグメントで、16世紀末から17世紀初めのもので、織られた場所はカイロだとされています。
カイロはマムルーク絨毯が製作されたところでもあり、その伝統が引き継がれ、糸や染色や織り技術など、この時代もっともレベルの高い絨毯が織られていたのかもしれませんね。

円柱が6本の、「黒の教会」所蔵の絨毯。17世紀後半。
ボーダーにチューリップとカーネーションが配されてエレガント!
暗めの茜をはじめ落ち着いた色合いが素晴らしい。

この時代からはトルコの産地が特定されています。
こちらは17世紀末のギョルデス。 おなじギョルデスでも18世紀に入るとデザインが複雑化してきますが、このピースはシンプルで可愛い感じ。

こちらはクラの18世紀初めの絨毯。
渋い黄色とインディゴが基調で、茜はほんの少ししか使われていません。
駆け足でのご紹介でしたが、「トランシルバニア絨毯」の本はなかなか見ごたえがあります。
古いトルコ絨毯にも色々なタイプがありますが、みなさんのお好みのものはありそうでしょうか?
ではまた〜〜!
「トランシルバニア絨毯」の本
「『トランシルバニア絨毯』と呼ばれるトルコ絨毯」で引用させていただいた本の紹介の続きです。
スマホから投稿すると写真のサイズが小さくなるので、見づらいかもしれませんがご勘弁を…

前回はトランシルバニアの教会内部の写真しか載せなかったのですが、この本には一枚一枚の絨毯の全体写真も載っています。
○「ギルランダイオ絨毯」(画家の名前)
○「ホルバイン絨毯」(画家の名前)
○その他、年代の古い絨毯
○ウシャク絨毯(トルコの地名)
○「ロット絨毯」(画家の名前)
○セレンディ絨毯(トルコの地名)
○オスマン宮廷絨毯
○トランシルバニアグループ
○その他の祈祷用絨毯
このようなタイプの225枚の絨毯が掲載されています。
一番古い絨毯は、ドメニコ・ギルランダイオというフィレンツェの画家の絵に描かれているデザインの絨毯。

新しい絨毯ならいざ知らず、何百年も前に織られたものは、いつ、どこで織られたのかは不明なことが多く、専門家の間でも同定が難しいようです。
絨毯の呼び方は、織られた産地や織った部族など、いくつかのパターンがありますが、それが不明な場合、ルネッサンス以降の絵画を参考にして、絨毯の絵を描いた画家の名前をつける方法があります。
この絵が描かれたのが1480〜1485年なので、これに似たデザインの絨毯があれば、それが15世紀に織られたと推定することが妥当であるとされています。
また、これに近いデザインの絨毯を、ギルランダイオの名に因んで、便宜的に「ギルランダイオ絨毯」と呼びます。

15世紀中葉のものと推定される「福音教会」所蔵の絨毯。

ハンス・ホルバインというドイツの画家の肖像画にも絨毯が描かれています。このようなデザインの絨毯の通称として「ホルバイン絨毯」という名前がつけられています。

15世紀末に織られたとされる聖マーガレット教会所蔵の「ホルバイン絨毯」
次はトルコの絨毯産地ウシャクで織られた絨毯です。

こちらは星のようなモチーフから「スター・ウシャク」と呼ばれるタイプです。推定16世紀前半

ロレンツォ・ロットというベネツィアの画家の1542年の作品。

通称「黒の教会」所蔵の「ロット絨毯」。推定16世紀後半。
産地はおそらくウシャクだろうと考えられています。
次はトルコのセレンディ(ウシャクの40km西)で織られたと考えられている3つのタイプ。

「黒の教会」の17世紀初頭のチンタマーニ文様」絨毯

「福音教会」の16世紀末推定の通称「バード・ラグ」。
文様の本当の意味は不明で、これも便宜的につけた名称。
古い絨毯って、わからない点が本当に多いんですね。

聖マーガレット教会の17世紀中葉の通称「スコーピオン・ラグ」。
このデザインを「サソリ」に例えたわけですが、うーん、どうでしょう?
以上は15世紀から17世紀に織られたと考えられる絨毯でしたが、これらは他の地域でも見つかっているタイプの絨毯です。
これとは別に「トランシルバニア絨毯」と呼ばれるデザインのものがあるのですが、次回にご紹介したいと思います。
それではまた〜!
「トランシルヴァニア絨毯」と呼ばれるトルコ絨毯
前回と同じ場所の梅の花。満開です。
さて、前回取り上げたうちのトルコ絨毯がいつごろ織られたものなのか?
というと19世紀後半から20世紀はじめではないかと思います。
「アンティーク、アンティーク」と騒いでいても、
それより前の時代の絨毯を入手するのは非常に難しい。
そんな私があこがれる絨毯といえば
「トランシルヴァニア絨毯」と呼ばれるトルコ絨毯です。
現在のルーマニアの一部ですが、
このトランシルヴァニアの教会に古〜いトルコ絨毯が残っているのです。
"ANTIQUE OTTOMAN RUGS IN TRANSYLVANIA" by Stefano Ionescu 2005年
以下の写真はこの本より転載
トランシルヴァニア地方は昔から豊かな土地で、
12世紀ごろからドイツ・ザクセン地方の人びとが入植をはじめた。
トランシルヴァニアは中東とヨーロッパを結ぶ交易路の重要な中継地として栄え、
富を蓄えた地方の名士やギルドなどが
当時はたいへんな贅沢品であった絨毯を教会に寄進した。
ブラショフという町にあるトランシルヴァニア地方最大の「黒の教会」(正式名称は「聖マリア教会」)。
高さ65mの塔を持つ後期ゴシック教会で、ルーマニア最大級のパイプオルガンも備えている。
1477年完成当時はカトリック教会だったが、1544年にプロテスタント・ルター派に改宗したという。
去年は「宗教改革500年」にあたり、
ルターが「95ヶ条」の提題でキリスト教会の改革をはじめたのが1517年。
以後、カトリックとプロテスタントの長く壮絶な争いが始まるのだが、
ドイツからかなり離れたトランシルヴァニアの教会が、ルター派に早期に改宗したというのも面白い。
ルターはザクセンの修道士だった。
トランシルヴァニアの人びとは、もとはザクセンの人びとだ。
遠く離れた故郷での新しい大きなうねりに無関心でいられるはずがない。
トランシルヴァニアの宗教改革を率いたヨハネス・ホンテルスはじめ、
故郷との人的交流などによって、いち早く反応したのかもしれない。
そこにまた、イスラム教の祈祷用絨毯がずらりと飾られているのが衝撃的なのである。
上段は通常の意匠の絨毯だけれど、下段はミフラブのついた祈祷用絨毯。
しかし、ルター派がどうの、キリスト教会にイスラムのお祈り絨毯がどうの、と言っているよりも、
写真から伝わっているこの美しさは何物にも代えがたい。
このレヴェルの絨毯は、いまでは博物館でしか見られないものだが
博物館で見るのと、このような「祈りの場」で見るのとでは全然ちがうと思う。
日本でも、おなじ仏像であっても、博物館で見るのと本来のお寺で見るのとでは、ずいぶんちがう。
こちらは「異教」ではあるものの、敬虔な祈りの場に安置され、何世紀にも亙って大切に手入れされつづけてきた絨毯である。
絨毯にたくわえられてきた「気」というか「power」が違って当然だと思う。
パイプオルガンのある身廊は通常の絨毯がほとんどのようだ。
トランシルヴァニア地方には、「黒の教会」以外にも古いトルコ絨毯を飾った教会がある。
聖マーガレット教会。
中央は「ホルバイン絨毯」、左右は「ロットー絨毯」である。
(「ホルバイン絨毯」「ロットー絨毯」というのは画家の名前を冠した通称で、これはまた機会を改めて)
ハルマンの福音教会にある「ロットー絨毯」
* * *
「ホルバイン絨毯」や「ロットー絨毯」は、16〜17世紀と非常に古いものが多いが、
「黒の教会」に見られる祈祷用絨毯は、それより後の時代のもののようである。
「黒の教会」は1689年に大火事でパイプオルガンさえもが焼ける被害を受け、絨毯もほとんどが焼けたようだ。
教会再建の過程で、教会員や支援者があらたに絨毯を寄進したわけだが、
そのなかで18世紀に織られた祈祷用絨毯の割合が多くなったことも考えられる。
うちのトルコ絨毯
近くの里山では梅の花が見ごろをむかえ、桜は着々と開花に向けて準備中。
ギブスが取れたあとも左手はなかなか思うように動かなかったのですが
ようやくブログを書く余裕ができてきました。
* * *
きょうは天気が良かったので、ひさしぶりに絨毯を干しました。
冬は乾燥しているとはいえ、しまいこんでいると空気が淀んで絨毯にはよくありません。
きょうはトルコ絨毯だけですが、日に当てて風を通すことができました。
* * *
1月にミラス絨毯の記事を書いたとき、
その源流とでも呼ぶべき「トランシルヴァニア絨毯」について
写真だけでも絨毯好きの皆さんにご紹介したいなあ、と考えていました。
アンティークのトルコ絨毯は、宮廷用の巨大な絨毯もありますが、
多くはタタミ1畳ほど「セッジャーデ」と呼ばれる大きさのものです。
「トランシルヴァニア絨毯」もセッジャーデ・サイズ。
すでにブログにアップしてきた絨毯ばかりですが、
うちにあるトルコ絨毯をもう一度、眺めてみたいと思います。
この二枚はトルコ西部のミラス絨毯。
右側は、よく絨毯の本に登場する独特のミヒラブを持った代表的なデザイン。
左側も祈祷用デザインですが、あまり本では見かけないタイプ。
ひとまわり小さいですね。
縦糸は染めていないウール、緯糸が茜で染めたウール。
パイルはもちろんウールです。
トルコ中央部の絨毯。
左はムジュール、中央と右はクルシェヒールの絨毯です。
ミラスと同じく、縦糸は染めていないウール、緯糸は茜で染めたウール、パイルもウールです。
左はクラ、右はギョルデスの絨毯。
トルコ西部でも、ミラスの北、イズミールの東になります。
「トルコ結び」の別名が「ギョルデス結び」と呼ばれるように、
ギョルデス絨毯は18世紀から19世紀にかけて、さかんに欧米に輸出されました。
このギョルデス絨毯は、緯糸と白いパイル糸がコットンです。
初期のギョルデス絨毯はすべてウールでしたが、19世紀になると緯糸がコットンになりました。
右のクラ絨毯は「輸出用」というよりも、自分たちで使うタイプの村の絨毯です。
20世紀に入ってのものだと思いますが、ウールも染めも素朴な味わいがあります。
トルコ東部の「濃ゆーい」絨毯です。
トルコ東部の絨毯は「クルド」なのか「ユルック」なのか、判別に困りますが
左側のいかにもワイルドな印象に比べて、右側はきちんとして可愛い感じですね。
ウールの質も違います。
どちらもセルベッジ(耳)にこだわりがあります。
やはりトルコ東部の絨毯。
どちらもクルドのようです。
左は色使いがすばらしく、モチーフにも可愛さが感じられます。
コンディションはよくないけれど、本に載ってもおかしくない絨毯だと思います。
右はオレンジは天然だと思いますが、かなり化学染料が入っている模様です。
形もずいぶん末広がりだし、品がいいかといえば「うーん、、、」ですが、
とにかくパワフル! こういう絨毯もアリ!なのではないでしょうか。
あんまりお行儀が良くなくても魅力的な人がいるように、
ケミカルが使われた「横紙破り」の絨毯だって、織った人の息づかいが感じられていいなあと思うんですよ。
ミラス絨毯の3タイプー「メダリオン・ミラス」の謎
人生はじめてA型インフルエンザに罹り、
「なるほどインフルエンザというのはこういうものか〜」
という経験値をひとつ増やしたぷぎーであります。
主に呼吸器をやられて一昨日の夜は寝るに寝られず、しんどい思いをしましたが
きのうから快方に向かい、今朝は近所の公園を歩くことができました。
病気をするたびに健康のありがたさを感じられるように、
人生の嫌なこと苦しいことは、
後でしあわせを存分に感じられるようになるためのものかも知れません。
* * *
さて、前回ご紹介したハゲハゲのミラス絨毯、
譲ってもらったアメリカのコレクターによると「"Mejedieh Milas"と呼ばれる絨毯」とのことでした。
"Mejedieh" とは何ぞや? と思ってもほとんど資料がなかったのですが、
ネットでわずかにヒットしました。
それによると
「トルコがアブデュルメジト一世の治世下(1839-1861)でフランスの色やデザインの影響を受けた絨毯」
とのことです。そうするとあの絨毯はやはり江戸時代末くらいのものですね。
他に"Mejedieh Milas絨毯"はないかな〜と探してみましたが、見つかりません。
そこでこれを機会に、アンティークのミラス絨毯についてちょこっと調べてみました。
左はアンティーク・コレクタース・クラブ全5巻のトルコ絨毯編。
全体像を知りたいなと思ったら、まずこの本に当たります。
右はトルコの文化観光局発行の5冊本で、掲載数550という圧倒的ボリューム。
産地ごとにまとめてくれたら使いやすいのに、とは思いますが、いろんなタイプを知ることができます。
コレクターズクラブ本によると、
ミラス絨毯はトルコ絨毯の中でも(欧米人に)一番人気で、
以下の3つの基本形に分けられる、とのこと。
・独特の形のミヒラブを持つ「プレイヤーラグ(祈祷用絨毯)」(一番数が多い)
・Karaova 地方から産出される「アダ(「島」の意)・ミラス」(中央四角を二重に囲むデザイン)
・赤地にゴールデンイエローの「メダリオン・ミラス」(極めてレア)
前回の"Mejedieh Milas"に似たものはないかな〜、と探しましたが
構図的にはこれが一番近いでしょうか。
中央のフィールドに二つの長方形があり、オーナメントで満たされています。
この絨毯は、タイプとしては「アダ・ミラス」になるんでしょうか。
困ったことに、この本には「メダリオン・ミラス」のサンプルが出ていないんです。
そこで、また別の本を当たってみました。
右は以前にブログで取り上げた田村うらら著『トルコ絨毯が織りなす社会生活』。
左が今回の掘り出し本(?)"TURKISH CARPET" by J.Iten.Maritz 。
この本はアンティークまでいかないオールド絨毯が多く、
これまであまり読んだことがなかったのですが、
産地や掲載されている絨毯についての説明が詳しいのです。
この本に掲載されている絨毯を見ていきましょう。
独特の形をしたミヒラブのプレイヤーラグ。
推定1875年で、縦糸・緯糸・パイルすべてウール。
画像では「灰色」に見える部分があり、化学染料を思わせるのですが
全体の印象から、やはり古いものだと思います。
たぶん印刷があまり良くないため、実際の色と違っているのでしょう。
インディゴ由来の水色と、オーベルジーヌの紫かもしれません。
アダ・ミラス (その1)
推定1930年。 素材はすべてウール。
中央は「生命の樹」で、本来は典型的なアダ・ミラスのデザインだったということです。
アダ・ミラス (その2)
推定19世紀末〜20世紀初め。
「中央のフィールドに二つの六角形を配したデザインは非常に珍しい。
この時代より後にKaraovaで盛んに織られるようになるアダ・ミラスは色数が少なくなっていく」とのことです。
ここで『トルコ絨毯が織りなす社会生活』から、
現在もボザラン村で織りつづけられているミラス絨毯を見てみましょう。
ボザラン村の絨毯はいまなお天然染料で染められているので貴重ですが、
色数という意味では昔よりも減っているのかもしれません。
やはり「アダ・ミラス」のデザインですね。
トルコ西南のエーゲ海近くに、MilasとKaraovaがあります。
そしてボザラン村はここにあります。
「アダ・ミラス絨毯がKraovaで盛んに織られた」という歴史の延長線上に
近隣のボザラン村で、同じタイプの絨毯が織りつづけられているのでしょう。
* * *
さて、少々横道に反れましたが、ミラス絨毯の3つの基本形の3番目
「メダリオン・ミラス」が"TURKISH CARPETS" に載っていました!
ジャーン!これです!
そして驚きなのが、縦糸と緯糸がコットンなのです!
トルコの村の絨毯の多くは縦糸も緯糸もウールであり、
仮にコットンが使われている場合は、最初から販売目的で織られたことが考えられます。
「メダリオン・ミラス」以外のミラス絨毯は縦糸も緯糸もウールですし、
絨毯のデザインも他のミラス絨毯とはかなり異質だと思いませんか?
「オリエンタルカーペットのコレクターがこの絨毯を見てもミラス絨毯だとは思わないだろう」
と説明文に書いてあるくらいですから、やはり「異例」なのでしょう。
ノット数も他のミラス絨毯より細かいし、デザイン的にはペルシャ絨毯に近いと思います。
ここで『トルコ絨毯が織りなす社会生活』をパラパラめくってみると、気になる記述がありました。
ボザラン村の近くの「カラヂャヒサル村」の絨毯は、他のミラス地域の絨毯とはデザインも色も違っているというのです。
この本によれば、カラヂャヒサル村に1896年OCM(Oriental Carpet Manufacturer)の工房が建てられ、
工場が解散する1919年までのあいだ、村のほぼ全世帯の女性たちがその会社の仕事を請け負っていたとのこと。
十九世紀末にユダヤ人たちが村に織を持ってやってきて、絨毯の工房を建てた。朝から村のたくさんの女性たちがそこへ行き、その日の織り上げた目の数に応じて賃金を得た。
そこへ一九一〇年か一九一二年のいずれかにウシャックの絨毯工場からデザイナーとして派遣されてミラスにやってきたアテネ出身のひとりの男、つまりギリシャ人が村の工房で働くようになった。(中略)
彼はデザイン画を熱心に描き、自分で糸を染め、描いたデザインを織って次々に新しい柄見本絨毯を生み出した。 (P.202)
18〜19世紀には、ミラスには相当数のユダヤ人やギリシア人が住み、主に商業・手工業に従事していたが、
第一次大戦敗戦後にナショナリズムが吹き荒れて、村の絨毯工房のユダヤ人たちは追放されてしまったと、、、
これがカラヂャヒサル村の絨毯。
「白地に花柄」が特徴で、先に述べた赤地の「メダリオン・ミラス」とは配色が違います。
レアな「メダリオン・ミラス」はもしやカラヂャヒサル村で織られたのでは?
という想像は、これでは立証されないものの、なんらかのヒントを与えてくれるのではないでしょうか。
可能性1:カラヂャヒサル村では他の配色やデザインの絨毯も織られたが、白地のものだけが生き残った。
「メダリオン・ミラス」も、じつはカラヂャヒサル村で織られた。
可能性2:19世紀末から20世紀にかけて、ミラス地域の他の町でもカラヂャヒサル村と同じように
ユダヤ人やギリシア人が興した工房があり、そこで「メダリオン・ミラス」が織られたが、
カラヂャヒサル村のようにその後もそのデザインが生き残るのではなく、歴史の彼方へと忘却された。
、、、などでしょうか?
* * *
「OCM」について以前書いた記事はこちらです。
それでは、また〜!
♪ハゲハゲ♪ ミラス絨毯
2018年になりました。
去年は絨毯展でなんとなく記事が書けましたが、
この3年以上絨毯・キリムをゲットしていないので、あらたにご紹介するものがナイ!
でも、なんとか新年をスタートさせなきゃ〜、ということで、
このブログにふさわしく、ハゲハゲ絨毯でスタートいたします!
うわあ〜〜〜〜〜(絶句)
トルコ西部のミラス絨毯。19世紀中頃でしょうか。
このオーベルジーヌの紫の濃さ! もう今の染色技術では出せない色だと思います。
「こんなハゲハゲ絨毯どこがいいの?」とお思いでしょうが
いちばんの魅力は染色の見事さです。
下の部分を見ると、3段ほどパイルの向きが逆になっています。
補修した人が作業しやすいように反対側からパイルを結んだのでしょう。
白のボーダー部分のパイルの向きが逆。
オリジナルのウールの経糸が途中で切れていたかどうかして、
コットンの経糸で補修しています。
でも補修に使われた糸のウールや染めはオリジナルに近い良質なもの。
キリムエンドを見ると
左右はオフホワイトのコットンで、真ん中は茜色。
何回も補修を繰り返していることがわかります。
非対称結び(トルコ結び)は、パイルが短くなるとこんな感じ。
すべての色に透明感があって美しいけれど、
個人的にはこの「黄緑」が一番好きかな〜
ゆったりしたモチーフの配置もいいですね〜
見ていると肩の力が抜けてホッとします。
パイルが取れて、経糸と緯糸だけになった部分も愛おしい。
アンティークのトルコ絨毯は、緯糸が赤いピースが多いようです。
オリジナルの経糸が残っている部分。
経糸は染めていないウール。
天然の脂分ラノリンを多く含んだつややかな羊毛です。
少しでもダメージをカバーするためか、
裏側が全面リネンの布で覆われています。
テーブルクロスのような布なので、プロの補修職人ではなく
コレクターが自力でおこなった作業なのかもしれません。
こういったことをあれこれ想像するのも、古いモノ好きの楽しみ。
* * *
2018年がみなさまにとって良い年となりますように。
トルコ東部クルド族の寝具

かなり個性が強いので、好き嫌いが分かれると思う。

日本でも市民権を得たギャッベは、もともとは南西ペルシャ遊牧民の寝具だった。
それを商品化する過程で、ギャッベはタテヨコに折り畳むことのできない、基礎が硬い織りに変化したが、本来の遊牧民の寝具はこのように折り畳むことができる。
ご覧のようにパイルが長い。

最初パイルを眺めたとき「なんか他の絨毯と違うな」と思ったのだが、よく見るとパイル糸が双糸なのだ。二本の糸を縒ってある。
普通絨毯のパイル糸は縒っていない単糸なので、これを見つけたときは嬉しかった。

わかりにくい写真ですが、見えますでしょうか?

茶色の糸が摩耗しているので、ある程度古いものだと思うが、一部化学染料が使われている。

これは紫の化学染料で、表面は退色して白っぽくなっているが、根元に紫が残っている。

裏を見ると、紫がよくわかる。
ヨコ糸にはこげ茶色の糸。これは折り畳みやすいように、ヨコ糸が4本から8本とたくさん通してある。

フリンジがでているキリムエンドの赤い糸もケミカルっぽい。化学染料だとフリンジに色移りしやすいようだ。

それでもこの絨毯が好きなのは「爆発する生命力」!
いかにも逞しいクルド族の手によるものである。
このボーダーの自由な線も大好きだ〜〜!

この絨毯から生命力をお裾分けしてもらって、きょうもがんばろう〜〜!