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2012.03.30 Friday

雑感

 

里帰りしていたときに母の本棚から白洲正子さんの本を取り出して見ていたら、おもしろい文章を見つけた。それは、「サザビーズやクリスティーズなどのオークションハウスのシステムがますます浸透し、真贋や価格面で不透明だった骨董界が世界規模でオープンになりまことに喜ばしい」、という骨董評論家が書いた新聞記事に反駁する文章だった。

白洲さんは、オークションハウスが擁する専門家やそのシステムを一定程度評価したうえで、「それでも何か、いちばん大切なものを忘れている気がする」というのである。「スタッフは勉強もし研鑚も積んでいるだろうが、贋作が絶対にないということは保証できないと思う。価格面においても、もっとも財力のある人間の手に落ちる仕組みであるために、いちばん高い金額がその品物の評価ということになってしまう。それははたして公正な価格といえるだろうか。また、オークションでは“商品”がつぎつぎと繰り出され、きわめて事務的に淡々と取引が進められるため、やきものでは非常に大切な“手ざわり”や“口にあてた感触”などが絶対にわからない」。

「贋作や不当な価格といった骨董屋にたいする不信は根強いようだが、一流の骨董屋はプライドにかけて贋作は店に出さないものである。しかしそのような店でも、経験の浅い番頭や店員が誤って仕入れた贋作が倉庫にたんまりとあり、これ見よがしに並べてある。それは仕入れに失敗した人間にその前を通るたびに恥じさせて、二度と贋作を仕入れないよう、日々教育するためなのだ。」「骨董屋の価格が曖昧だという指摘はその通りかもしれない。しかし、本当に骨董が好きな客は目でわかる。骨董屋はそういう客には儲けなしで譲ったりするし、逆に、骨董が好きでもないのにステイタスを誇るために骨董を買うような客にたいしては、法外な値段で売りつけることもある。買った方は「これはいくらで買ったんだぞ」と人に自慢げに吹聴するわけだから、私は骨董屋がそれほど悪いことをしているとは思わない」。

「同じ時期に同じ工房で焼かれたやきものでも、伝世品と近年発掘された品ではまったく違う。仕覆を着せられ、箱をしつらえられ、日々大切に扱われてきた伝世品と、土のなかに放っておかれたものは違って当然だと思う。その違いは人間の愛情である。だから、やきものが美術館や博物館におさめられたら可哀相だ。愛撫されないやきものは孤独になり、その艶をうしなってしまう。骨董は手もとに置いて日々眺め、なでてやり、使ってこそ価値があると思う」。
  

本が手元にないため表現が正確ではないが、わたしの記憶に残る白洲さんの文章はざっとこのようなものだった。

モノは古くなると年月によって独特の味わいと風格を身につけていく。なにかの拍子でそこに惹かれ、古いものの世界にどっぷりつかってしまうと、抜け出そうにも抜け出せなくなる人間がいる。(わたしもその一人かもしれないが、ジュリエット・ビノシュ主演の映画「トスカーナの贋作」で「古いモノはキケンだ」というセリフには思わず笑ってしまった。)いっぽうで、古いものはその希少さと愛好者たちとのバランスで金銭的価値が決まり、投機の対象にもなる。骨董は“商品価値”と“愛情あるいは思い入れ”の狭間にあるものなのだ。


 含蓄のある白洲さんの文章を読んで、考えを改めさせられた部分があった。それはミュージアムにたいする考え方である。大阪の国立民族学博物館は遊牧民の毛織物も所蔵しているし、私立の白鶴美術館はペルシャ絨毯を多数所蔵している。だが日本では毛織物文化がまだまだ根づいていないため、専門の公立ミュージアムがなく、とくにトライバル・ラグの認知度はすこぶる低い。だから絨毯屋の榊さんたちとも「日本に絨毯博物館があるといいですね」といった話をすることもあった。できるだけ多くの人びとにトライバル・ラグの良さを知ってほしいからである。けれどもトライバル・ラグは、博物館に展示されるのが必ずしもベストな選択ではないと思うようになった。絢爛豪華なアルデビル絨毯やチェルシー絨毯などならば、立派な施設で多くの人に鑑賞されるのがふさわしい。しかし遊牧民の絨毯やキリムはむしろ、日々眺められ手入れをされ、愛でられるのがいちばん幸せなのかもしれないし、持主にとっても心ゆたかで幸福な時間が過ごせるのではないだろうか。


 わたしは「あんた、そんなにたくさん絨毯やキリム持ってどうすんの?」という意見がコワイ。だからこのブログも親兄弟や友人には内緒である。先日、ふとした拍子にある友人に知られてしまい、彼女も好きになってくれたみたいなのだが、これは一応特例である。ちょっと話がそれてしまったが、なぜコワイかというと、「すごい物欲が強いのね!」と思われたくないからだ。で、自分自身にたいする言い訳としては、「これは“消費”じゃないのヨ。一時保管、そう、一時保管をしているだけなの」というものだ。どうぞ笑いたいヒトは笑ってください。わたしも笑います。ハハハ……

さて、人生のエンディング・ノートを考えなければならない時期に、わたしもそろそろ差しかかっている。平均寿命を考えればもうすこし余裕はあるかもしれないが、人間はいつどこでどうなるかわからない。だから、いま大切にしている絨毯とキリムをどうしたらよいか、考え中なのだ。もし公立の絨毯博物館があれば、そこがもらってくれれば一番よいと思うが、ない物ねだりをしてもしょうがない。愛好家たちで協力して私設の美術館をつくるといっても、設立資金もなければ、運営するのも至難の業である。

そこに白洲さんの文章を読んで、気持ちが変りつつある。手もとにある絨毯やキリムはいずれ、それらの良さを本当にわかってくれて大切にしてくれる人にゆずったほうがいい。毛織物は素材がたんぱく質であるため、やきものよりもずっと寿命が短い。個人の住居での保管、しかも日本のような高温多湿の気候下では二百年がいいところかもしれない。けれども火事などの不測の事態を除けば、大切にすれば持ち主の寿命よりはずっと長い。手から手へ、毛織物がバトンタッチされ、ゆく先々で、ささやかだけれども心ゆたかな時間をつくりだす。

そのような過程を通して、徐々にトライバル・ラグやキリムの良さが日本の裾野にひろまっていくことを願う。大量生産・大量消費の時代はもう終わった。手仕事のぬくもりがふたたび価値を見出され、時間がゆるやかに流れ、ひとのこころが豊かになる。そういった静かな変化を経ていってはじめて、日本に絨毯博物館といったものが現実化するのかもしれない。

コメント
『骨董は“商品価値”と“愛情あるいは思い入れ”の狭間にあるもの』には同感ですね。昨日はほぼ半日以上ドイツのNagelAuctionに見入っていたので、共時的な内容に驚きました。白州さんらしい、本質をついた言葉も納得します。
日本では絨毯好き、布好きは少ないのでしょうね。
今日もカリスマオーナーで知られる偶然有名ブランド勤務の方と話をする機械があったのですが、これだけ洗練された技術とセンスを持つ日本にテキスタイルを本格的に見られたり確かな情報を入手できる『場』が無いということでした。
是非とも日本でも部族絨毯やキリムを含めた触れるテキスタイルミュージアムが出来ることを願います。
いや実現させましょう!
  • tribesakaki
  • 2012.03.30 Friday 22:31
白洲さんってやっぱり凄い人ですね。モノに対しても人に対しても「本物を見抜く」眼力のある人だったように思います。
「触れる」テキスタイルミュージアム……いいですね〜!絨毯はなんといっても「さわり心地」が大切ですから……フロイトが診察のカウチにカシュガイ絨毯を敷いていたことからも、深層心理を解きほぐすチカラを持っているのが絨毯だと思います。ぜひ本物の部族絨毯の色と質感を多くの人に知ってもらいたいですね。
  • ぷぎー
  • 2012.04.01 Sunday 06:15
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