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2012.04.14 Saturday

曽我蕭白「商山四皓図屏風」の謎

  

東博で開催中の「ボストン美術館 日本美術の至宝」展を観た。あまり時間もなかったし、全作品をじっくり鑑賞するほど集中力がもたないのが判っていたので、前半の作品群は速足で見るだけに止めて、エネルギーを後半の「華ひらく近世絵画」と「鬼才 曽我蕭白」を観ることに使った。

日本画の素養はほとんどないが、これらを観ることで充実した時間を過ごせた。開館直後に入ったし、目的とする作品に直行したからゆったりと見ることができた。長谷川等伯の「龍虎図屏風」。龍と虎そのものというよりも、この絵は「気配」、あるいは「気」を描いているのだと思った。息子の長谷川左近の「牧牛・野馬図屏風」は、とてもさわやかな気分になれる美しい画だった。気持ちが静かになって、深呼吸をした。


      長谷川左近「牧牛・野馬図屏風」左隻

強烈な印象を受けたのは曽我蕭白。江戸中期の円山応挙や与謝蕪村と同期の画家で、奇矯あるいは異端としてずっと無視されつづけていたが、1970年に辻惟雄氏の名著『奇想の系譜』で取りあげられて以来、注目を集めはじめたという。しかし今回展示されたボストン美術館所蔵の作品はビゲローとフェノロサが“明治“に集めたものである。日本人から無視されていた蕭白の芸術性を最初に高く評価したのは彼らだったのだ。わたし自身蕭白についてはほとんど知らず、展覧会で衝撃を受けてから調べはじめたが、エキセントリックが前面に出ている作品も多く、それらに比べるとボストン美術館の作品は、蕭白のなかでも選りすぐりの洗練されたものだと思う。そしてたぶん日本画のなかで、とりわけ高い精神性を持つものではないかとも。

今回の展覧会の目玉は大迫力の「雲竜図」だ。圧倒的な大きさの画面に真黒な墨がたたきつけられ、部屋の襖全面をこの絵で取り囲まれたらどんな気持か、想像に余りある。

しかしわたしが一番惹きつけられたのは「商山四皓図屏風」だった。人間でもモノでも、ひとが心のいちばん深いところで「出逢う」機会というのはそんなに多くないのではないだろうか。わたし自身、絵画と「本当に出逢ったな」と思ったのは片手で数えるほどしかない。そしてこの絵はたぶん、その中のひとつである。

最初の印象は「不思議な画だな」というものだった。そして、なぜだかわからないが、その絵にぐーっと惹きつけられた。わたしにとっての“忘れられないほどいい絵“との出会いは、たいてい、こういうふうにはじまる。右隻にはなんだかよくわからない「ヘンな空気」が漂っている。いっぽう、左隻にはある種の解放感が漂っているのだ。驢馬に乗った人が、山上から右手の橋を見下ろしているさまが、飄々として味わい深い。

ところで「商山四皓」とは何なのか、わたしは知らなかった。展覧会の図録説明にはこうある。

 

「アーネスト・フランシスコ・フェノロサが明治二十三年(1890)に本図をボストン美術館に最初に登録した際、右隻の巨大な松の下に寄り合うひげを生やした三人の人物と、左隻の驢馬に乗るつば広帽をかぶった人物が「商山四皓」であることが判明した。後に岡倉天心によってこの比定はより確実なものとなった。商山四皓とはすなわち、中国秦王(始皇帝)による圧政と国乱を避けるため商山に遁世した東園高・綺里季・里(ろくり)先生・夏黄公の四人を指し、中国の儒者にとって称賛の対象であり、道士たちもまた四高士を不死の存在として尊んできた。商山四皓は、中国だけでなく日本でも好画題として多く描かれてきたが、一定の図様はなく、そのことが本図の画題特定を困難にさせていた。

蕭白はしばしば中国の伝統的な故事人物画を描いたが、いずれの画題にも独創的な斬新さを求めた。迫力のある自由自在な筆遣いと完全な抽象性とのバランスのなかで画面が構成されているが、松の針葉や驢馬の手綱といった細部から構図を読み解くことができる。」

 

なるほど、「竹林の七賢」みたいなものか。でも、俗世間のしがらみを断ち切って、精神的自由の境地にあるはずの、右隻の隠者の表情が全然晴れないではないか。一番右側の隠者は額に手を当てて困った顔をしているし、背中向きの隠者は肩を落としている。その左の隠者は酒を片手に暗い顔をしている。開き直っているような表情にも見える。わたしが調べた範囲では誰も言及していないのだが、右隻の重苦しさを支配しているのは、その視線の先にある背中向きの人物ではないだろうか。この人物は何者なのか?肩の線から、童子というより女性のように見える。そして、おそらく、泣いている。わたしにはこの背中がとても禍々しいものに思われる。

講談社の横尾忠則・狩野博幸『水墨画の巨匠第八巻・蕭白』の山口康弘氏による図版解説にはこうある。

 

「木橋のかたわら、松の巨木の陰で憩う三人の隠者と、遅れて驢馬で来るもう一人の隠者が描かれる。秦が衰えるのを見て商山に隠れた四人の隠者を描いたもので、「後素集」にいう「商山四皓、巴橋と云所にて碁を打つ」場面に相当する。碁盤は対局する右端のふたりの隠者にかくれてみえないが、してやられたとばかり、はたと頭に手をやるおどけた隠者。にんまりとほくそえんでいるに違いない背中がそれを暗示する。
 この画の見どころは辻惟雄氏がいうように、白隠風の略画人物と共に永徳風の巨樹にあろう。しかしシルエットこそ永徳風であれ、形態の大胆な抽象化はまぎれもなく蕭白固有のものであろう。また、永徳受容にみせる蕭白の構えには、江戸や明治の論画家たちがみたようなアナクロニズムや、永徳やその時代を理想として敬仰するようなありきたりの憧憬心もみられない。むしろ、古典絵画の典型的な形態――この場合は永徳様の巨樹――を引用して、自分自身の形態的嗜好に合わせて変容してしまうマニエリスム的傾向がそこに見られる。

それにしても、ここまで思い切った単純化は蕭白にも珍しい。しかし、この思い切った単純化は、運筆を加速して淀みのない率直な筆描を促し、蕭白としては例のない、のびやかで明るい画面づくりに一役買っている。」

 

 なるほど専門家の解説というのはこういうものか。どうやら「後素集」というのは、狩野一渓が画題とされる中国の故事などについて編述した、元和九年(1623)の書物のようである。わたしが観たときは気づかなかったが、松や山はひとつながりとして描かれている。たしかに驢馬に乗った人物が三人のところにやってきたとも取れる。専門家が言うのだから「巴橋囲碁図」という説明はおそらく正しいのだろう。しかし、「してやられたとばかり、はたと頭に手をやるおどけた隠者。にんまりとほくそえんでいるに違いない背中がそれを暗示する。」という解釈にはかなり違和感がある。顔を見せている二人の隠者の表情が暗すぎるし、後ろ向きの隠者の背中は萎縮して何かにおびえているように見える。この印象は、山口氏の解説を読んだ後も変わらない。

 ずぶの素人の強みとも言えるが、わたしはわたしの直観を大切にしたいと思う。

 右隻左の禍々しい背中は、“戚夫人“ではないだろうか。漢の高祖・劉邦が寵愛した女性である。「商山四皓」を調べていくうちに、彼らがじつは二度隠遁していたことがわかった。一度目は、先ほど述べた秦の圧政を嫌ってである。二度目は、血なまぐさい政治を避けていた四人が漢の朝廷内部の権力闘争にはからずも巻き込まれ、失望のあげくふたたび隠遁したのである。高祖とその正妻・呂后との嫡子・孝恵帝は情にもろく病弱であったため、高祖は太子を排して、代わりに寵愛する戚夫人の子・如意を立てようとした。司馬遷『史記』の「呂后本紀」には、あやうく権力を失いそうになった呂后が陰謀術策を使ってそれを阻み、「無事」孝恵帝を即位させるいきさつが書かれている。そこに「商山四皓」が巻き込まれたのである。四人は漢の高祖の招きからも逃げていたのだが、優秀な参謀・張良の説得により宮廷に招かれて孝恵帝の人柄をほめたたえて寿いだ。四人を崇拝していた高祖は、これによって戚夫人の子・如意ではなく、呂后の子・孝恵帝に位を継がせることに決めたのである。このあたりは『史記』「留侯世家」に書かれてある。やがて高祖が死に、実質上の権力が呂后の手にうつると、呂后はその残虐さをほしいままにした。内容があまりにおぞましいのでここには書かないが、とにかく戚夫人は悲惨な運命をたどることになり、「商山四皓」は善意とは裏腹に、結果的に呂后の手助けをしたことになる。蕭白画の右隻の三人は、戚夫人が慟哭する姿に戸惑い、自責の念を持ちながらもなすすべを知らずに凝固している、というのがわたしの印象である。

しかし右隻の重苦しさを打ち破るものがある。それは左隻の驢馬に乗る男の後ろ姿である。「遅れて驢馬で来」ているにしては、三人とはまったく違う雰囲気を醸し出しているように思える。気持ちが晴れるまでにはふっきれていない。だが胸に重苦しいものをかかえながらも、みずからが担える責任を引きうけていこう、といった姿勢を感じると言えば、あまりに感傷的すぎる思い込みだろうか。

 俗世を避けて隠遁することは中国知識人のひとつの理想であり、日本画家はそれを画題に用いてきた。しかし、「権威」や「達観」というものに「嘘」を見ぬき、「嘘」をあざ笑いつづけたのが蕭白なのかもしれない。「竹林七賢」も、蕭白の手にかかれば仲間割れの画が描かれる。少数派の二人を雪が降る外に追い出してあたたかい部屋に残る五人の「賢者」の顔は、俗物そのものに描かれている。

 しかしこの「商山四皓」には、「冷笑」には終わらない蕭白の「正気」が描かれているように思えるのだ。一説によれば、四人のうちの夏黄公は晩年郷里で医者になり、その娘の黄姑がその遺志を継いだとも聞く。つば広帽をかぶっているのは、あるいは往診の途上の夏黄公なのかもしれないし、向こうにかかる橋は、夏黄公が張良と出逢ったといわれる「下の橋」を暗示しているのかもしれない。「あのときの自分は世の中のことが何でもわかるとうぬぼれていたのだ。自分が呂后の悪行の手助けをすることになろうとは夢にも思わなかった。こうして医者をしているのは、せめてもの贖罪のつもりである」――驢馬に乗った後ろ姿から、そんな声が聞こえてくるような気がする。


右隻


左隻

むかしむかし、曽我蕭白という、えらく風変わりな絵描きがいた。この人を食ったような絵描きは、スフィンクスのように通りかかったものにさまざまな謎を投げかけた。「おまえはこの画をどう見るかい?」そこにたまたまわたしが通りかかってしまったわけだ。その謎解きを、わたしはわたしなりに考えた。まったく見当ちがいもはなはだしいのかもしれない。でも、少なくともわたしはこの画に魅せられ、この画の背景を知りたくなった。だた、それだけのことである。

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