ARCHIVE  ENTRY  COMMENT  TRACKBACK  CATEGORY  RECOMMEND  LINK  PROFILE  OTHERS
<< December 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 絨毯・キリムを自宅で洗う注意事項 | main | 映画「早池峰の賦(はやちねのふ)」 >>
2013.10.02 Wednesday

「目ヤニ」懺悔録

 

 ブログを書く気力がなくなった理由を、すこし考えてみた。一週間に一度は更新しようとつとめてきたが、書きたい気持ちよりも義務感が先に立ち、内容もあまり日本で知られていない情報を伝えたいために、どうしても本の紹介が中心になって、ラグに夢中になったころの新鮮な気持ちが失われてしまったような気がする。


 先週3日ほど故郷に帰っていたのだが、また母の本棚から30年ほど前の骨董雑誌を引っぱりだして読んでいた。以前里帰りしたときも白洲正子さんの文章を見つけて、それに関する記事を書いた。「伝世品と近年発掘されたものでは同じ窯でもまったく違うものになる。仕覆をきせられ箱をしつらえられ、人間の手で撫でられ大切に扱われてきたものと、土のなかに放っておかれたものでは、品格が違う。愛情の注がれかたが違うからだ」と白洲さんはいう。なるほど、それはそうだろう、と私は思った。ところが今回読んだ関保寿さんと宗左近さんの対談では、ある意味それとは対照的なことが語られていたのである。


 関さんはいう。古い仏像がさまざまな骨董商や蒐集家の手を経てめぐりめぐるうちに、「目ヤニがついてつくられた当時のウブさがなくなってしまった」ものに出会うことがある。人によってはそれに気づかずに平気で持っている場合もあるが、自分は大変気になるので、どうすればこの皮膜のようなものを取り除けるか、いろいろ苦労をすることになる、と。 つまり、骨董をめぐる人間の「俗」の部分が「もの」の品格にまで良からぬ影響をあたえることがある、ということだろう。


 これには驚いた。絨毯を眺めていて、織った人がどんな性格か、どんな気持ちで織ったのかは想像できる場合もあるが、この絨毯をあつかったディーラーや以前の所有者の「欲」や「打算」といった「目ヤニ」が絨毯に沁みついていると感じたことはない。私はそこまで敏感じゃないし、見る目もない。でも、対象が仏像というスピリチュアルなものであり、かつ関保寿さんや宗左近さんほどの人物にかかれば、仏像についた「目ヤニ」も見えるのかもしれない。これは皮肉で言っているのではなくて、ものの本質を見ぬく力のある人は、少数ではあるがやはり存在するのだ。


 私は絨毯についた「目ヤニ」は見えないが、自分のほうに「目ヤニ」がついているなという気がする。ちょいとここらで落とす必要がある。

 自覚症状としては、白鶴美術館を見に神戸を訪れたとき。何件かの絨毯屋さんにもおじゃましたのだが、お店の方に挨拶もろくにせずに、飾ってある絨毯にズカズカと歩み寄り、「あっハムセかな」「経糸コットンですね」と口走ってしまったのである。いま思いだすと本当に恥ずかしい。なんて失礼な“客”だろう。そこだけじゃない。別の絨毯屋さんでもさまざまなタイプの絨毯を見るたびに、「アメリカン・サルークですね」「クルシェヒルもある」云々、まず「分類」してしまう癖がついているのだった。

 これは、よくない。我ながら、すごく下品だと思う。


 ラグを見ていても、まず「あっ、これいいな」というのは大前提だとしても、染料、意匠、時代……と考えていったうえで、「相場的に安いか高いか」といった「俗」の部分もどうしても考えてしまうのである。もちろん価格のことは考えざるを得ない。けれども、素人が下手に「やがて値上がりする」「投資になる」といったことに執着すると、ろくな結果にはならないと思う。アンティークキリムや絨毯が品薄になっているのは事実だし、トルコなどでも大変な値上がりになっているらしいが、日本にはアンティークラグをきちんとした価格で取引する市場がないし、よほどの商才か特別な販売ルートを持っているのでない限り、普通の人が買った値段以上で売ることはむずかしい。また、骨董の世界でもよく言われるが、ブランドや資産価値にこだわったコレクションは俗臭芬々たるものになるという。


絨毯やキリムに夢中になりはじめたころは、しょっちゅう感動していた。「こんな細かい柄が手で織れるの」「こんなにあったかい気持ちになれる絨毯があるの」「こんな深い色が天然染料で出せるの」……。いまふり返れば、それほどたいしたラグでもなかったかもしれない。でも、少なくとも、きちんと絨毯と向きあう前に「分類」したり「値踏み」したりしてしまう「目ヤニ」はついていなかったと思う。


もう一度、初心にたちかえろう。素直な気持ちになって、深呼吸をひとつ。そうして絨毯にむきあおう。そうしないと、100年の時を経て絨毯が語りかける言葉は聞こえてこない。「目ヤニ」がポロリと落ちるとき、絨毯の本当の輝きがみえるはず。

コメント
連投すいません。なるほど、と思いました。

まず、白州さんのオコトバ。意外。私は、てっきり、土の中にあった方がいいのだ、という流れなのかと思ってました。
土族としては、放っておかれたどころか、土の中で熟成されたくらいのイメージを持っていました。土と陶との恊働関係から生まれるもの、土の中から見つけたときの感動は素晴らしいだろうな、うらやましいな、とか。 

そして、目やに、俗、皮膜。なるほど、この視点は触発されますね。皮膜かあ、、

ぶぎーさんは、上のようにおっしゃるけど、ブログからは毎回、強烈な絨緞愛が伝わってきますよ。分類も読み手にはためになる情報。私みたいに「キレイ!」「青が好き!」でお茶を濁しているのとは全然違う。

私は逆な反省をしていて、(自分自身の勉強のためという要素が大きいのですが)、タイルの歴史から書いてみたいと思っています。自分なりの言葉でしか書けませんが。
古いタイルは基本的に流通していないので売買という側面がなく、かけらを持っていても何の価値もないので、まったくの好きの世界にしかなり得ないのが、面白いです。

長々とまとまりないことを失礼しました!これからも楽しみに待ってます!
  • orientlibrary
  • 2013.10.03 Thursday 11:29
いえいえ、投稿大歓迎です。!(^^)!
Oriさまのブログはいつもしっかりした内容があって、全然「キレイ!」「好き!」だけじゃないですよ。そしてフットワークの軽さ!ヒッキー系の私としては見習いたいです。

白洲さんは青山次郎や小林秀雄などの骨董仲間や壺中居など一流の店とのお付合いが中心だったので、モノとの出会いという意味でも恵まれていたのかもしれませんね。

絨毯の分類や背景を知ることは確かに大切だと思うのですが、自分のどこかが「スレてきている」っていう感じがするんですよ。この年になると誰も注意してくれないので(笑)自分で気をつけるしかありません。

絨毯はもともと生活用具なので「インテリア」として使うのとは一番まっとうな使い道なのですが、日本でも欧米のように絨毯が「アート」として認められるようになるといいなあ、という気持ちが強いんです。
そこらへんで日本の現状と自分の願いとのギャップが大きくて……

まあ一個人の拙いブログですから、あまり気負わず正直に、自分の書きたいことを書いていこうと思っています。
これからもよろしく!
  • ぷぎー
  • 2013.10.03 Thursday 16:26
「青山二郎」でした。ごめんなさい。
  • ぷぎー
  • 2013.10.03 Thursday 16:27
白須さんの言う「伝世のもの」は、お家で愛されて使われて、代々残って来たもののことを言うのだと思います。目ヤニがついてるのはいろんな人に「品定め」され、売買されたモノ、つまり「欲」にさらされてきた、ということではないかと、私は解釈しました。

若い頃、新幹線で隣り合わせた骨董家(有名な企業の社長さんでした)に、「本当にいいものは店先でも店の奥でもなく、個人の家にあるもの」と聞いたことがあります。

人でも、ものでも、両の手で、愛されてこそ「育つ」のだと思います。たとえ量産されたものでも、人それぞれ、10年使えば使ったなりの個性が出て来る。(ジーンズだってそうですよね)

遊牧民に限らず、人々の生活に根ざしたものたちには、確かに愛された証のような輝きがあると、私は思います。誰かを幸せにするための、無垢な精神が宿っているとでも言おうか。やっぱり、やめられないですよね〜!
  • April
  • 2013.10.03 Thursday 20:55
『目ヤニ』がつくという感じはよくわかります。あるアンティークのテキスタイルディーラーから同じような話を聞いた事があります。その時は『目アカ』がつくと言っていました。どちらもあまり綺麗とはいえませんが、現地から仕入れた絨毯=『目アカ』がついていないモノは動きが良い様に感じています。なので、在庫はまったくそのままでも仕入れに出掛けてしまい、仕入れたものだけが動くという悪?循環が続いています。
特に日本では何かが『憑く』という感覚は民俗学の世界でも特有なファクターとして信仰されてきたように感じます。
モノも100年使えばつくも(九十九)神になる・・・。
素晴らしい感性と思えますが。
『青山学校』とは言わないまでも、時々は様々な世界のモノ好きな人達との交流も出来るといいですね。
いつもながらブログ楽しみに拝見しています。勉強になります。同時にoriさんやapriさんのコメントも素晴らしいです。
  • tribesakaki
  • 2013.10.03 Thursday 22:41
Aprilさま、説得力のあるコメントありがとうございます。

やはり大切なのは「愛情」ですね。物は物でありながら、それを取り巻く人間の心を敏感に感じ取って、変化しつづけているのかもしれません。

自分に語りかけてくるような気がする絨毯と、よそよそしい感じの絨毯があるけれど、それって「育ちのちがい」かも?!

「幸せな人は周りの人も幸せにする」っていう言葉がありますが、私たちを幸せな気持ちにしてくれる絨毯やキリムを大切にしたいですね。

同時に、長年踏みつけられ泥に汚れてはいるけれど本当は美しい絨毯を拾って、お風呂に入れてゆったりくつろがせ、幸せにしてあげたいです。(笑)
  • ぷぎー
  • 2013.10.04 Friday 07:34
Sakakiさま、興味深いお話をありがとうございます。
とてもいい品物なのに動かないことがある――なんとなく分かるような気がします。何かが「憑いて」しまっているんでしょうね。

私はいわゆるスピリチュアル関係には興味がないのですが、経験的に「気の流れ」にだけは気をつけるようにしています。気が滞るとあまり良くないので、掃除や定期的な物の移動をすると良いようです。自分自身がリフレッシュされるだけでなく、物もリフレッシュしているのかな?

「青山学校」もそうですが、新しいムーブメントにはある種のカリスマ的人物や強い「美学」が求められるのかもしれませんね。茶の湯しかり、民藝運動しかり……
いつか日本にも「部族絨毯の美」が浸透していくことを願っています。
  • ぷぎー
  • 2013.10.04 Friday 07:56
コメントする








 
この記事のトラックバックURL
トラックバック
Powered by
30days Album