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2016.04.24 Sunday

漱石「思い出す事など 十九」


 余はこの心持をどう形容すべきかに迷う。

 力をあきないにする相撲すもうが、四つに組んで、かっきり合った時、土俵の真中に立つ彼等の姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分とたないうちに、恐るべき波を上下じょうげに描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球が幾条いくすじとなく背中を流れ出す。

 最も安全に見える彼等の姿勢は、この波とこの汗の辛うじてもたらす努力の結果である。静かなのは相剋あいこくする血と骨の、わずかに平均を得た象徴である。これを互殺ごさつという。二三十秒の現状を維持するに、彼等がどれほどの気魄きはく消耗しょうこうせねばならぬかを思うとき、る人は始めて残酷の感を起すだろう。

 自活のはかりごとに追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。われらは平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の満足を、吾らと吾らの妻子さいしとに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、日々にちにち自己と世間との間に、互殺の平和を見出みいだそうとつとめつつある。戸外そとに出て笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いのうち殺伐さつばつの気にちた我を見出すならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、回向院えこういんのそれのように、一分足いっぷんたらずで引分を期する望みもなく、命のあらん限は一生続かなければならないという苦しい事実におもい至るならば、我等は神経衰弱におちいるべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる。

 かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引延ばすならば、朋友ほうゆうもある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめえぬ戦いを持続しながら、※(「煢−冖」、第4水準2-79-80)けいぜんとしてひとりその間に老ゆるものは、見惨みじめと評するよりほかに評しようがない。

 古臭い愚痴ぐちを繰返すなという声がしきりに聞えた。今でも聞える。それを聞き捨てにして、古臭い愚痴を繰返すのは、しみじみそう感じたからばかりではない、しみじみそう感じた心持を、急に病気が来て顛覆くつがえしたからである。

 血を吐いた余は土俵の上にたおれた相撲と同じ事であった。自活のために戦う勇気は無論、戦わねば死ぬという意識さえ持たなかった。余はただ仰向あおむけに寝て、わずかな呼吸いきをあえてしながら、こわい世間を遠くに見た。病気が床の周囲ぐるり屏風びょうぶのように取り巻いて、寒い心を暖かにした。

 今までは手を打たなければ、わが下女さえ顔を出さなかった。人に頼まなければ用は弁じなかった。いくらしようと焦慮あせっても、調ととのわない事が多かった。それが病気になると、がらりと変った。余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。さいが来た。しまいには看護婦が二人来た。そうしてことごとく余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。

「安心して療養せよ」と云う電報が満洲から、血を吐いた翌日に来た。思いがけない知己ちきや朋友が代る代る枕元まくらもとに来た。あるものは鹿児島から来た。あるものは山形から来た。またあるものは眼の前にせまる結婚を延期して来た。余はこれらの人に、どうして来たと聞いた。彼等は皆新聞で余の病気を知って来たと云った。仰向あおむけに寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。にくいとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。

 四十を越した男、自然に淘汰とうたせられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、いそがしい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、やまいに生きかえると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打壊うちこわす者を、永久の敵とすべく心に誓った。

馬上青年老。 鏡中白髪新。
幸生天子国。 願作太平民。

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