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2012.03.04 Sunday

トルクメンの新刊本を読む―いわゆる「ベシール絨毯」について


Erena Tsareva“Turkmen carpet”より、「アムダリア中流―中央アジアのバビロン」の一部をご紹介します。

 「アムダリア川中流域に固有の絨毯は、北ユーラシアの織物芸術の歴史におけるユニークな現象である。その驚くべきあざやかさと多様性、そして斬新さは部族絨毯に興味を持たない人びとさえも魅了している。
 この地域の織物の伝統は、流域の“入植地化”と直接に結びついて発展してきた。アケメネス朝時代、中央アジア最大の大河の浅瀬に最初の入植がはじまって以来、その川をアーリア人はWakhsh、ギリシャ人はOxus、アラブ人はJeitunと呼んだ。シルクロードの交易や外交の隊商、遊牧民の移動、東へあるいは西へと進む種々の軍隊は必然的にこの川を渡らねばならなかった。最初に通過したのはアレキサンダー大王で、かれは前329年に自らの軍を率いてOxis川を渡った。“訪問者”のなかにはこの地域の初期入植者に加わって経済システムの発展に関与するものもあった――灌漑農業、家畜飼養、手仕事、そして絨毯を織り、取引することである。」

彼女によれば、アムダリア中流はシルクロードの中でもっとも種々多様な民族がゆきかう要衝のひとつであり、それがこの地域の毛織物のユニークさを形成した、というわけです。



この地図は"Between the Black Desert and the Red"という本からのものですが、トルクメニスタンとウズベキスタンの間にアムダリア川が流れています。堂々たる大河ですね。
トルクメン絨毯が交易されたBukharaを青で、アムダリア川中流を北部・中部・南部に三分割した中心地Chardjou(旧称はAmur), Burdalyk, Kerki(旧称はZemm)を赤で囲いました。

エレナ女史は、ホフマイヤー氏の実際のコレクションを見ても、アムダリア川中流の絨毯は、複数のトライバルグループと産地、および遊牧民ではないオアシスの都市住民によって織られた、と述べています。

では実際に、掲載されたホフマイヤー氏のコレクションを見ていきましょう。
以後、「南部」「中部」「北部」という表現はアムダリア中流域での区別です。


        (エルサリ 206×275cm 19世紀中頃)

エルサリはこの地域で最大の勢力で、17世紀から18世紀にかけて「南部」に移り住むようになり、農業のかたわら絨毯の製作をおこなっていたとのこと。
この絨毯は、トルクメンの部族絨毯らしく、「グリ・ギュル」メダリオンが並んでいるが、その間をうずめる「アヒルの足」モチーフや、「孔雀」のメイン・ボーターは、シティ・ラグ的な要素を持ち、ブハラやホラサン(現イラン)のバザールで人気があった「エルサリの商業的バリエーション」のピースではないか、というのです。


       (ミナ・ハニ・グループ 138×212cm 18世紀)

スキャナーの性能が悪くあまり鮮明ではありませんが、本の写真はとても美しいものです。実物はさぞすばらしいでしょうね〜!

「中部」には、この地域の古くからの住人のほか、アラブ人・ペルシャ人・ウズベク人・インド人など小さなトライバルグループが住み、そのほとんどが絨毯を織り、多種多様なパターン、スタイルと技法を生み出したといいます。
紫や深紅を使ったこの「ミナ・ハ二文様」の、構造的にも同じ絨毯が、絨毯だけでなく袋物にもみられることから、「単一の製作グループによって織られたのではないかということが示唆される」というのです。おそらく都市住民の一部のような気もしますが、織り手を確定するエビデンスがないため仮に"Mina Khani Group"としたのでしょう。

また、ブログには写真をアップしませんでしたが、「北部」に住んでいたと思われるサロールのマイナー・ギュルパターンの小さな絨毯(18世紀)が載っています。


       (「南部」のもの 160×310cm 19世紀前半)

さあ、これがベシールの中でも有名な「クラウド・バンド」デザインのもの。
エレナさんによれば、「古代のもっともトーテミックなモチーフのひとつは大蛇」で、「大蛇のイメージは青銅器時代のトルクメニスタンで好まれた」といいます。
深い青のベースは「水」を、間を埋める赤いドットは「繁殖」を象徴しているとのこと。
織ったのがどこの部族あるいはオアシス住民かについて、彼女は言及していません。

いわゆる「ベシール」の呼称についてこの本では「この呼称は商業から生まれたものであり、19世紀にブハラの商人が、トルクメン絨毯のすべてとアムダリア中流の絨毯を“ブハラ”と名づけたことを連想させる」と書かれています。
V.G.Moshkova氏とエレナさんがそれぞれ独自におこなった調査でも、「ベシールはごく平凡な村であり、Burdalykや他の中部地域の製作地の競争相手ではありえない」ということです。
つまり「ブハラ」も「ベシール」も、「絨毯のブランド化」のツールとして使われた言葉にすぎないのかもしれませんね。


   (ウズベクか? 「南部」 178×312cm 19世紀)

これは都市の家庭で使われるために織られた絨毯で、イカット・パターンの影響を受け、単純化された「カメ」のイメージだといいます。


(エルサリ「南部」132×152cm 放射性炭素年代1633-1706が30.7%、1714-1820が47.1%)
  
これは「エンシ」と呼ばれるテントのドアの役目をする絨毯ですが、一般的なエンシより短めです。



上は「トルバ」と呼ばれるテントバッグ、中と下は「アスマリク」と呼ばれるラクダの飾り。
織ったのは、上がキジル・アヤク、中がエルサリ、下は不明。「キジル・アヤク」はエルサリの小支族とされています。
これらはいわゆる遊牧のテント生活で使われる「トライバル・アイテム」なのですが、それらの一部は
「プロフェッショナルな都市住民が、ウールやその他遊牧産品と引き換えに、遊牧民のために織ったもの」というのです。
エレナさんの主張が正しいとすれば、衝撃の事実!


(上はキジル・アヤク「南部」126×97cm19世紀初頭、下はエルサリ「南部」125×87cm19世紀以前)
この二つは大きなテントバッグであるチュバルです。キジル・アヤクはとても良い絨毯を織ると聞きます。エルサリのピースも、繊細で優美な印象を受けますね。
「部族がこの地域に住んで長くなるほど、この地方の色合いが濃密になってくる」とエレナさんは言います。
つまり厳しい環境にいる場合と、アムダリアのような豊かなオアシスにいる場合と、おなじ部族でも織られる絨毯が違ってくる、ということなのでしょうね。



先のキジル・アヤクとエルサリのキャプションは「チュバル」だったのですが、この二つのキャプションは「チュバルタイプのラグ」となっています。
何か根拠があるからこそこう表記したのでしょうが、本文にはその説明がありません。
ただ一見してわかるのは、過剰なほどの装飾性です。
遊牧生活でのチュバルは、お嫁入り道具として力を込めてつくられるのが一般的ですが、これほど華美なものは本でもあまり見かけません。

それでも、さらに驚くべきなのは、これほど装飾過多でありながら、まったく嫌味がなく、きわめて洗練された美意識に貫かれていることです。

            ***
アムダリア川中流域は、交通が発達し、温暖な気候と塩分を含まない豊富な水に恵まれた地域です。
さまざまな人々が行き交い、豊かな文化が育まれた「中央アジアのバビロン」に生まれた、うつくしい絨毯の数々。
行ったこともない地に、ロマンをかきたてられます。

コメント
こんばんは、いつも、良く調べられていますね。
旦那さんが、トルクメンのテントバンドのフラグメントを調べましたら、都市の業者が、織って売っていた?と説明されていたそうです。面白いですね^;^
 ところで、ヤフオクに出ている、バルーチのキリムは、田井さんが出品されているのですか?
  大分過ごし易くなりました、夏の疲れが出ません様、お過ごし下さい。

                    美幸
  • Miyuki Ikeuchi
  • 2013.09.09 Monday 18:38
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