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2017.04.17 Monday

北インド古典音楽@源心庵

 

きのうは天気も良く初夏のような陽気。

絨毯好きのつどい2016」に来てくださった寺原太郎さんのコンサートに行ってきた。

 

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「絨毯好きのつどい」以来、寺原さんが主催している「世界音楽紀行」に通うようになった。

 

寺田亮平さんのトゥバ音楽を皮切りに、スウェーデン音楽、チベット音楽、アイリッシュ音楽と聴いてきたが

なかなか聴けない世界の音楽を生で聴けるチャンスだし、

毎回行くたびに新しい収穫があって、楽しみにしている。

 

この「世界音楽紀行」とは別に、「数寄の庵で聴く北インド古典音楽」に行ってきた。

 

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左の建物が、江戸川区の行船公園内にある数奇屋造りの日本建築「源心庵」。

月見台が大きく池へ張り出していて、水がすぐそばに感じられる。

池には鯉やマガモなど水鳥がたくさん。

建物から池をへだてた対岸には、葉桜となりかけた桜が見えた。

 

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すみません、最初はブログ記事にするつもりじゃなかったので、

コンサート終了後の日暮れの写真で見栄えがしませんが、よく手入れされた素敵なお庭もありました。

 

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今回のフライヤー、これまた持ち回っていたので折り目クチャクチャ汗

 

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当日いただいた資料によれば、北インド古典音楽は

旋律を奏でる「主奏者」、リズムを奏でる「伴奏者」、通奏低音を奏でる「タンブーラー奏者」で構成されるという。

 

今回は二部構成で、前半は寺原さん(バーンスリー)、後半は H. Amit Roy 氏(シタール)がそれぞれの主奏者で、

どちらも伴奏者はタブラの池田絢子さん、タンブーラー奏者は寺原百合子さんだった。

 

北インド古典音楽をきちんと聴くのはこれが初めてだったけれど、

やはりインドという国の奥行き、深さのようなものを体感した。

 

まず一曲の長さ! 前半は50分超、後半も1時間超!

一番好きなバッハのゴールドベルク変奏曲が、演奏者にもよるけれど大体1時間なので、それに匹敵するわけだ。

しかも即興ですよ、あーた!

 

寺原さんいわく「まずその日演奏するラーガ(彩り)を決めるんですが、同じラーガでも

その日の気分によって30分で終わったり、1時間以上にもなったりする」そうな。

 

最初はチューニングから始まる。

主奏者が自分の基本となる音を決めた上で、タンブーラーとタブラもそれに合わせる。

あるインド音楽の演奏者はチューニングについて「神様の座る椅子を整える」と表現しました。

正しい音の椅子にのみ、神様が座ってくれるのです。

 

うん、この言葉、演奏を聴いた後ではすごくわかるー。

インド音楽って神様抜きでは語れないのではないだろうか。

 

* * *

 

さて、寺原太郎さん。

「春の曲にしたいんですが、インドの春って日本の春とかなり違うんですよね。

激しい感じのものが多いんですが、今回は比較的日本に近い感じのラーガでいきます。

桜のようにふんわりと美しく、けれどどこかにちょっと狂気をはらむような」

(スミマセン、うろ覚えなので発言が正確でないと思いますが)

ということで始まった。

 

「気楽に聴いてくださいね。後ろでお茶飲んでも結構ですし、池を眺めに立ってもいいですよ」

えっ、そうなのー。

 

それにしてもバーンスリーという横笛は懐が深い音を出す。

寺原さんのバーンスリーを聴いてからは、手持ちのCDのフルート協奏曲が物足りなく思えるようになったくらいだ。

いわゆる「室内楽」として発達したフルートと、バーンスリーは成立ちからして違うのかもしれない。

 

演奏を聴いたシロートの感想。

「比較的日本に近い」の言葉どおり、旋律もどこか日本的な気がしたし、

満開の桜をイメージして演奏されていたのかもしれない。

最初はおもむろに主奏者の演奏、

やがてタブラが入ってきてスリリングな掛け合いへと進行する。

 

あー、桜だ〜満開の桜〜、桜吹雪〜!

なんか身体がむずむずと動きはじめる。

前の席では首をくねらしてリズムを取っている人もいる。

人目を気にすることがなかったら月見台に出て踊っちゃってたかも。

 

「そうだ、こういうときは田中泯!

田中泯を呼んできて踊ってもらおう!」

と目を閉じて音楽を聴きながら勝手に妄想に耽った。

 

最初は「40分くらい」とのことでスタートしたが、興が乗って50分超〜!

すごいな太郎さん、熱演でした〜!

撥弦楽器や打楽器でも50分の演奏は体力勝負だと思うのに、笛ですよ笛!

声楽の人だって、あんなにぶっつづけに歌ったらもたないんじゃないかなー?

アメージング呼吸法!

今度、肺活量どれくらいあるかきいてみよう。

 

* * *

 

さて、休憩を挟んで H. Amit Roy 氏のシタール。

シタールも、ビートルズが採り入れたことぐらいしか知らないお寒い状況のワタシ。

 

前半のノリノリ気分を残しながら後半の演奏が始まった。

 

‥‥‥‥

 

前半の演奏は、"Music in the air〜!" という感じで

どちらかというと、音楽が外に向かって放たれていく印象だったのだが、

後半は非常に思索的で、個人の内面に向かって深く深く「問い」を発しつづけるような印象を持った。

 

前半は日本人の感性に近い音楽のように思えたけれど、

後半は、厳しい自然環境に生まれ、悠久の昔から積み上げられてきた思索の国の音楽だなと思った。

 

まあ、「何も知らない素人のたわごと」ということで聞き逃して欲しいのだけれど

なんだか、大きな悲しみをたたえている音楽という気がしたのね。

 

そうすると、いまの世界のこととか考えちゃって。

いまだって大きな自然災害が起これば、人間の力っていうのは本当に小さくて何もできないのに、

人間がつくりだす災いが猖獗を極めつつあるような世界のこと。

 

そんな世界に対して自問自答とともに、絶対者=神にたいして問いかけをつづけているような音楽。

アミット・ロイ氏の音楽からそんなことを感じた。

 

だから後半は首を振ることもなく、かしこまって聴いておりました。ぐすん

 

まあそれでも、アンコールに応えて演奏した曲は

「それでも世界は続く」という感じがして、ホッとした。

 

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きのうは興奮してなかなか寝つけなかった。

その混乱を引きずったまま記事を書いたので、支離滅裂だけれど、

それも私の1ページ。

 

 

心に響く音楽を聴けて、よかった。

 

 

 

 

 

2017.04.06 Thursday

大岡信「言葉の力」抜粋

 

詩人で評論家の大岡信さんが亡くなりました。

 

幅広い教養と深く細やかな洞察力にもとづきながら、さりげなく、

それでいて高い品格を感じさせる言葉の数々は、いまこそ再読の価値があるように思います。

 

「言葉の力」という1977年愛知県文化講堂における講演速記に加筆した文章を読んだとき、

ふだんは使い古されて単なる機能と化している「言葉」が、いのちを持って立ち上がるのを感じました。

長文なのでその中から、染織に興味のある方ならぜひ読んでいただきたい一部をご紹介します。

 

 

 美しい言葉とか正しい言葉とか言われるが、単独に取り出して美しい言葉とか正しい言葉とかいうものはどこにもありはしない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。そのことに関連して、これは実は人間世界だけのことではなく、自然界の現象にそういうことがあるのではないか、ということについて語っておきたい。

 

 京都の嵯峨に住む染色家志村ふくみさんの仕事場で話していた折、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは、淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかでしかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸いこむように感じられた。「この色は何から取り出したんですか」。「桜からです」と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取出した色なのだった。あの黒っぽいゴツゴツした桜の皮からこの美しいピンクの色がとれるのだという。志村さんは続けてこう教えてくれた。この桜色は、一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな、上気したような、えもいわれぬ色が取出せるのだ、と。

 

 私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、もうまもなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裏にゆらめいたからである。花びらのピンクは、幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンク色に近づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものにすぎなかった。

 

 考えてみればこれはまさにその通りで、樹全体の活動のエッセンスが、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花のピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全体の色として見せてくれると、はっと驚く。

 

 このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は、桜の花びら一枚一枚だと言っていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかしほんとうは全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。それが「言葉の力」の端的な証明でもあろうと私には思われる。

 

「『世界』主要論文選(1946-1995) 」岩波書店より

 

桜咲く季節に逝かれた大岡さん、

美しいことばの数々をありがとうございました。

 

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